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Posted by TI-DA at

2010年11月25日

ヤタガラスの旅:9

もう、お忘れの方もいらっしゃるでしょうが、熊野旅の続きです。



ちなみに、前回のはこれ。(『ヤタガラスの旅:8』)

書いている本人ももう内容をおぼろげにしか思い出せないのは本当の話です(ヲイ)。


話を戻して、熊野那智大社
ここに来たことで、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つからなる“熊野三山”はコンプリートです♪


実は、この熊野那智大社は、他の2つとは少し違う由来を持つのです。

それは、熊野那智大社という神社=神殿よりも、その近くにある滝の方がずっと信仰の歴史も古く格も高いということです。





この那智滝は、修験道の聖地としても信仰されました。
さらに、もっと前、まだ日本に神道も修験道もできるずっと古い時代の原始信仰(おそらくアニミズム的なもの)の時代から、この滝は“聖地”として信仰されていたのです!


熊野那智大社に見られる神仏習合。
そして那智滝での修験道と原始信仰。


つまり、

神も仏もその他諸々も全部包み込んで厳然とそこに存在している、チャンプルー聖地こそが熊野那智なのです!ヾ(。`Д´。)ノ


わかりやすくいうと、キリスト教とユダヤ教とイスラム教の聖地が同じエルサレムであるようなものです。
宗教対立のない、奇跡的なまでの平和的共存を果たしているのが熊野那智であると考えるとそのものなのです。


これは、熊野の生物多様性にもつながります。
よーかいがとても尊敬し大好きな博物学者・粘菌学者である南方熊楠先生については、またいずれ詳しく語りたいと思いますが少しだけここでも。

南方熊楠先生は自然保護運動における先達としても評価されています。
特に神社合祀令に反対運動を起こしたのは、それによって多くの神社の鎮守の森が失われることを危惧したことによります。
鎮守の森が失われることで、森につながる様々な生き物(それは、一見目に見えない菌類にまで及びます)が失われることをすでに明治の時代から見抜いていたのです!


南方熊楠先生は、熊野における『ナウシカ』と言っても過言ではないでしょう!ヾ(。`Д´。)ノ





『おお…
 儂のめしいた目にもはっきりと見える…

 その者、青き衣を纏いもせず、いやむしろ一糸纏わず、熊野の森に降り立つべし…』(爆)



……南方熊楠先生は、「ナウシカ」というには奇行が多すぎますでしょうか?o( ̄ー ̄;)ゞううむ



ところで、全国には数千社ともいわれる『熊野神社』があります。
これらの由来は、もちろん熊野三山からの分社です。

日本人に多い「鈴木」姓の源流は熊野にあります。

だから、全国の「鈴木さん」は熊野神社の広がりとともに各地に広がったのです。
実際、熊野神社のない地域には鈴木姓はほとんどいないそうです。


サッカー日本代表のヤタガラス、そして鈴木姓。

ここで、ぴんと来た人もいるでしょう。



そう、



元日本代表、「DFW」と名高い鈴木隆行“師匠”です!






まさに彼こそ、熊野とヤタガラスの申し子なのです!
むしろ、熊野の神です!!





………でしょうか?( ̄ω ̄;)




※内容がカオスなのはいつものことですが、とりあえず、『ヤタガラスの旅』編、これにて一旦閉幕です。
 おつきあい下さりありがとうございました!  

Posted by よーかい at 01:47Comments(0)

2010年11月07日

ヤタガラスの道:8

那智勝浦から向かうは、もちろん熊野那智大社なのです!ヾ(。`Д´。)ノ


車の中で眠ったので、朝日とともに自然に目覚めるかと思っていたら、結局目覚まし時計のアラームで起こされました…。
もうかなり日は高く、車内の温度は軽く脱水症状を起こすくらいに上がっていました…。

それでも起きない自分って……アセアセ( ̄_ ̄ i)タラー


寝付きはあまり良い方ではないのですが、一度眠ってしまうとなかなか起きません。
むしろ、どこでも眠れてしまうのは一種の特技なのかもしれません。
今度履歴書に書こうかしらん?


もしゃもしゃと朝食を食べ、車のそばの公衆トイレで洗顔とひげ剃りをしてから、出発です。


熊野那智大社は、那智勝浦から山を登った奥の方にあるのです。





写真は熊野那智大社の二の鳥居です。

もちろん、ここも世界遺産の神社です。
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、その3つを合わせて『熊野三山』なのです。

見た感じ、その3つの間には格付けの上下はないような感じでした。





これは推定樹齢850年の楠の巨木です。

願い事を札に書いて、胎内めぐりができるようになっています(有料)。

楠の中はこんな感じです。





トトロが住んでいるクスノキは、きっとこんな雰囲気なのかなぁ…と思いながら木の中に入りました。
でも、これだけ騒がしいと、トトロは住むことはできないだろうな。





熊野那智大社の奥に行くと、青岸渡寺(西国一番札所)につながっています。
奥に見えるのが那智滝です。


実は、熊野三山の他の2社(熊野本宮大社、熊野速玉大社)では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されましたが、那智では観音堂が残され、やがて青岸渡寺として復興したのだそうです。

そういえば、熊野信仰は阿弥陀如来信仰ともつながっていました
そんな名残がここ熊野那智大社ではまだ見てとることができます。


でも、まだこんなのは序の口なのです!


神道と仏教のチャンプルーだけが熊野三山ではないということを、熊野那智大社には如実に示してくれるものがあるのです。


南方熊楠御大は、科学を語るとき、壮大な“南方曼陀羅”といわれる森羅万象のつながりを想定していました。

「南方曼陀羅」を提唱した時期の南方熊楠は、まさに熊野那智大社に通ずる、和歌山県那智村(現那智勝浦町)市野々(いちのの)の大阪屋に籠って読書と植物採集、論文執筆に没頭していました。
その那智山中から、熊楠はたびたび「小生の曼陀羅」と称する、科学と大乗仏教を接合する世界認識の方法を書簡において論じていたのです。


すべての物事は、曼陀羅のようにつながっている。

このことは、生物多様性を言い表す言葉にも聞こえますし、あるいはヤオヨロズの神々が息づく熊野の様子を表しているともいえるように思います。



そう、抽象的な言葉になりますが、
熊野那智大社がもつ広がりは、神道や仏教の枠や時間軸を軽々と超えてしまうスケールのものだったのです…!




※続きます!  

Posted by よーかい at 02:52Comments(0)

2010年11月02日

ヤタガラスの道:7

熊野速玉大社に参詣した後、日が暮れたので宿泊場所を探します。


頼みの新宮ユースホステルは、当日キャンセルもないことがわかったので、野宿決定なのです。

もちろん、よーかいの車にはいつでも何があっても大丈夫なように、寝袋と防寒着は積んでありますし、この日はもしものために一人用テントとテント用のマットも持ってきてありました。


ただ…
テントを張るのに適した場所というのがなかなかすぐに見つかるものではないのです。


民家などの迷惑になるような場所には張れませんし、近くに水場やトイレも必要です。


そういうわけで、テント泊から車中泊に切り替えました。
どうせ車中泊するなら、ということで那智勝浦まで移動。
翌日は朝から熊野那智大社へ行く予定でしたし、那智勝浦の海の幸にも興味があったからです。


どこか道の駅でもあれば車中泊は楽なのですが、なかなかそういう場所はありません。

けれども、那智勝浦の中心部から少し離れた港の先端の方に、車が駐車できて、公衆トイレもある場所がありました。
そこで、車を停めて、椅子のヘッドレストを外して椅子を倒してなるべくフラットにし、さらにキャンプ用のマットも敷きます。
寝袋は開いて、毛布みたいにして使用。

ちょっと狭いのが欠点ですが、とりあえずこれで寝場所は確保なのです♪ヽ(=´▽`=)ノ



さて、寝場所を確保したら、次は晩ご飯の確保と町の散策です。


那智勝浦の裏道は、昭和レトロな雰囲気の木造家屋が多くて、なんだか落ち着く感じでした。
しかも、足下には昔のガラスの浮きを再利用したキャンドルライトが定期間隔に灯されていて、路地裏を幻想的に彩っていました。

少し歩いたら、ちょうどいい感じのおそば屋さんが開いていました。



そこはおそばも美味しかったですが、注文した焼酎のロックにおまけで付いてきたマグロがとても美味しかったです♪
マグロはサービスで無料でした。
中トロに近い感じです。
翌日にちゃんとしたお店で食べたマグロのお刺身よりも、このぶつ切りのマグロの方がずっと美味でした。

そして、和歌山名物めはり寿司を頼んだら品切れだったので、代わりにマグロのお寿司を頼んだら、イカのお寿司もおまけしてくれました。
どちらも美味しくて、すごく得した気分でした。


那智勝浦は、漁業で有名な港町です。


マグロやクジラ料理で有名ですが、ここでは翌日のお昼に初めてイルカのお刺身を食べました。




イルカの種類はスジイルカ。

スジイルカのお肉は、一般的なクジラに比べるとやや臭みがあるので、刺身の下には氷が敷き詰められていて、薄切りの玉ねぎのスライスと一緒に食べます。
独特ですが、とても滋味深い味でした。

イルカは「海豚」と漢字で書きますが、きっとかつては豚に匹敵するくらい、貴重なタンパク源だったのだろうなと想像します。

この町では、クジラ料理の種類も使っている部位もとても多く、どこも余さず食べているようでした。
クジラやイルカに対する畏敬の念を持って、食べていることがよく実感できました。


実際、那智勝浦近辺の海が豊かなのは、熊野の森があるからです。
森はプランクトンを育て、そのプランクトンを食べる魚が富み、それらの魚を追って、イルカやクジラも棲息できるのです。


また、かつては追い込み猟によってスジイルカの数を減らしてしまった時期もあったそうですが、現在、スジイルカは絶滅の心配はまったくありません。
イルカの種類によっては個体数が減っていて、捕獲してしまうと絶滅の危険があるものもあるのでしょうが、現在の和歌山県が捕獲している程度の量で、しかもスジイルカならば、
イルカの生態にほぼ影響なし
と断言してしまってもいいと思います。





食べることは、さまざまな生き物とつながることでもあります。

人間は、生き物を食べずにはいられない「業」を持った生き物です。
けれども、食べることと、食べる対象を愛することは矛盾しません。

そして、食べる対象がつねに棲息できるように、猟をする側は生息環境に対しても敏感になるのです。
日ごろからクジラやイルカに接している生活だからこそ、彼らの棲む環境に対してどうすれば適切なのかがわかるのだと思うのです。



さて、このときはちょうど運良く勝浦八幡神社例大祭の真っ最中でもありました。

港の漁船は大漁旗を掲げ、例大祭でボート競争が行われる、飾り付けられた小舟が港にいくつも停泊していました。





この勝浦八幡神社例大祭、クライマックスはなんと、
お神輿ごと海にじゃばじゃば入っていくという勇壮なものです。


日本にはいろんなお祭りがありますが、さすが海の民!と喝采をあげたくなります。



那智勝浦には公共の無料で誰でも使用できる足湯温泉もあり、そこで文庫本を読みながら夜の波の音をぼんやり聴くのも風情がありました。



なかなか文化の鮮烈な町が、こういう風に残っていることは旅の喜びなのですヽ(≧▽≦)ノ



※続きます!  

Posted by よーかい at 03:54Comments(2)

2010年10月31日

ヤタガラスの道:6

さて、熊野速玉大社、大鳥居から御神門まで、それなりの距離があります。


御神門をくぐると、拝殿、結宮、速玉宮といった拝所への敷地になります。

もしかすると、その大鳥居から御神門までの敷地は、「俗世間から離れた場所」としての、網野善彦さんがおっしゃるところの「無縁(あるいは「公界」)」だったのかなぁと想像したりしました。

例えば、中世までなら「神の領域」として、芸能民などがいたり、あるいは「まれびと」としての化外の民などがいた場所だったということです。

中世以降は、それらの人々は「異形」として、一種の被差別民とされますが、中世までは「この世よりも神の世界に近い」一種神聖な人々として畏れ敬われていたひとびとです。












(※写真は「異形の者」あるいは「化外の民」のイメージです………って、これは違います!)





さて、その「無縁・公界」だったかもしれない場所には、とても大事なものがあります。
それは、天然記念物にも指定されている梛(ナギ)の木です。

推定樹齢1000年の大樹!

平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられ、梛としては日本最大です。



梛(ナギ)は熊野権現の御神木で、その葉は、笠などにかざすことで魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれるものと信じられていました。
また、その名が凪に通じるとして特に船乗りに信仰されて葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏などに入れる習慣もあるそうです。


さらには、戦国時代に織田信長と正面切って渡り合って一度も負けなかった傭兵鉄砲集団、紀州雑賀軍は出陣の際には、シンボルとしてヤタガラスの紋章と梛の葉に鈴を付けたものを戦場に持っていったそうです。





ちなみに、雑賀軍とそれを率いた雑賀孫市(孫一とも)の活躍については、司馬遼太郎さんの『尻啖え孫市』で読むことができます。
個人的には『龍馬がゆく』よりも面白かったです。
また、幕末から大正期を描くことの多かった司馬遼太郎さんによる、戦国時代モノとして貴重な作品だといえると思います。

ある意味、雑賀孫市の魅力は、司馬遼太郎をして「戦国時代モノ」を書かせるまでであったともいえます。



そして、御神門をくぐると、熊野速玉大社の拝殿、結宮、速玉宮





夕暮れの熊野速玉大社は人もほとんどおらず、しんとして、なんだか異界に迷い込んだような雰囲気がありました。

実は、日本全国に『熊野神社』と名の付くものは数千社あるといいます。
熊野速玉大社は、その中の総本宮になります。

また、この地名は「新宮」といいますが、実は熊野三所権現が最初に降臨した元宮は「神倉山」という場所だったといいます。
それは今から二千年以上前、まだ神道ができる以前のことです。

その「神倉山」が「旧宮」なので、そこから遷宮した「熊野速玉大社」の場所は「新宮」と名付けられたそうです。


ただ、この熊野速玉大社、ちょっと不思議な経歴を持つ神社なのです。



神社といえば、いちおう管轄は神道です。

けれども、奈良時代、ここは薬師如来が祀られていたのです。
そして、阿弥陀如来信仰にともなって熊野権現信仰も広がったそうですが……




……薬師如来って、仏教の管轄ですよね?( ̄ω ̄;)



まさに神仏習合

や、もともとは神道以前の土着の神様や自然神や、ヤオヨロズの神々を祀っていたわけですから、もはやこれは壮大なチャンプルー神社といえそうです。


そういうわけで、例えば伊勢神宮などのバリバリの神道系神社は女人禁制だったりしたそうですが、熊野は女性の参拝が自由だったり、身分に関係なく多くの人々に開かれていたようです。




つか、この記事の初めからあらためて読み直すと、この熊野速玉大社は、
壮大なカオス
の様相を呈していますね…(; ̄∀ ̄A



そんな「なんでもあり」なゆるーい雰囲気こそが、熊野の魅力なのかもしれません☆ヽ(゜▽、゜)ノアハ




続きます!  

Posted by よーかい at 01:29Comments(0)

2010年10月26日

ヤタガラスの道:5

世界遺産の温泉で暖まった後は、熊野川沿いに道を下っていきます。

熊野川では、鮎釣りをしている人たちもいて、川の豊かさが窺えます。
今でも充分綺麗な清流ですが、ダムができる前は訪れた誰もが驚くほどの美しい水質だったそうです。


さて、熊野速玉大社

この日、熊野本宮大社に続く、熊野三山のうちの一つです。





場所は三重県の県境に近い、和歌山県新宮になります。

ちなみに、ここ新宮にユースホステルが1軒あるのですが、よーかいが訪れる1週間前にはもう満杯でした。
当日キャンセルがでていないかと思い、この日の午後にも電話してみたのですが、やはり満室でした。


でも、熊野速玉大社はガラガラでした……( ̄ω ̄;)
なじぇ……???


ちなみに、この新宮のあたりは、いつも(とは言ってもまだ2回しか通っていませんが)なぜかひどく渋滞しています。
とくに渋滞するような要因があるわけでもなし、不思議なのです。

熊野速玉大社に関しては、伊勢神宮などのように、周囲にお土産屋があるような俗っぽさは一切ないので、そういった観光地的混み具合とは明らかに一線を画しているにもかかわらずなのです。


もしかしたら、熊野の神様は、人が歩くくらいの速さでの移動がお好みなのかもしれません。
ビバ、スローライフ☆



ところで、この熊野速玉大社に限らず、神社の入り口には橋が架かっていることが多くあります。
ほんの小さな橋であっても、これは実は重要なことなのです。


なぜなら、この橋こそが、「現世」と「異界」を隔てるものだからです。


だからこそ、大昔から「橋の上での怪異」の話は多いのです。
また、沖縄の久高島でかつて行われていたイザイホーという男子禁制のお祭りには、7つの橋を女性が渡る儀式があります。
橋の高さはせいぜい30㎝程度だったといいます。

しかし、不義を働いた女性は、この橋から落ちて死んでしまうと言われていました。
実際に、亡くなったひともいたそうです。

イザイホーでは、この世とあの世の七往復。
それと同じような意味が、神社前の小さな橋にはあるのです。


鳥居そのものも、「俗世」と「聖なる地」を区切る結界的役割を果たしているのですが、実はその前にちょこんと、一見かわいらしく鎮座している橋こそが「この世」と「あの世」(あるいは「現世」と「異界」)を区切っている大事な象徴なのです。



橋を超えた先、そこはいわば……



………ナウシカでいうなら腐海の奥の清浄な地なのです!ヾ(。`Д´。)ノ





……あれ?


これって、たしか熊野の話でしたよね??ヽ(゜▽、゜)ノアハ



なんでいつの間にか沖縄やナウシカの話になっているのでしょうか???




まあ、いいや。
味はともかく、長靴いっぱい食べたいよ。(←ナウシカの足の匂いフェチの発言。…って違っ!)





えと………続きます☆(ヲイ)  

Posted by よーかい at 02:38Comments(2)

2010年10月22日

ヤタガラスの道:4

「しばらく旅に出ます。探さないでください」




………





………





………





……かなり本気でそんな置き手紙だけを残して、消えてしまいたい今日この頃です。



9月に入ってから仕事が猛烈に忙しくなり、夜10時、11時なんてざらなのです。
もちろん、残業代も全部でるわけじゃなく、サービス残業が大量に発生するのです。

今日はたまたま早めに上がることができましたが、1日のほとんどを仕事に取られている自分ってなんなんだろう…?
と考え込んでしまったりもします。


好きで選んだ教職なら、まだそういいう生活も「あり」かなと受け入れられますが、教職を目指しながら別職種で働いていると、わけがわかんなくなります。



……きっと、自分で思っている以上に心身ともに消耗しているのでしょう。

こういうときは、温泉なんていいなぁと思います。
車の運転なんて気にせずに、お風呂上がりにビールや日本酒が飲めたらそれはさぞ幸せなことでしょう。



そんなわけで、今日は熊野の温泉を思い出しながらブログを書くことにします……(つДT)




そう、熊野本宮神社の近くには、日本最古と言われる名湯があるのです!ヾ(。`Д´。)ノ






いくつかある温泉のうちでも、特に出色なのが、湯の峰温泉です。
つぼ湯”は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録地に湧き出る天然の岩風呂で湯の色が七回変化するとも言われるのです。

おそらく、唯一の世界遺産に公式に指定されている温泉です。


また、この湯の峰温泉は、浄瑠璃や歌舞伎など、江戸を中心に有名になった小栗判官と照手姫のストーリー(いわゆる『小栗判官蘇生伝説』)の地でもあるのです。


小栗判官は管領足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる途中、神奈川県で毒入りのお酒を飲まされ、瀕死の状態で熊野まで運ばれます。
途中、妻の照手姫の機転や献身に助けられたりしながら、熊野までたどり着き、湯の峰温泉で湯治をしているうちに、体調を回復していくのが史実です。

もっとも、歌舞伎やらなんやらでは、エンターテイメント性を高めるために、小栗判官は“瀕死”ではなく、本当に殺されて閻魔大王の元まで墜ちていってしまったり、照手姫も悪い人買いに売り飛ばされたりしてしまうわけなのですが……(; ̄∀ ̄A



ともかくも、その伝説の小栗判官が49日間滞在し、湯治した場所がつぼ湯であるのはまぎれもない史実なのです。


その世界遺産の湯、こんな感じです。
一人用のため、他に入る人もいないので、自分のiphoneで撮影です。
その後、足だけ湯につかりながら、
「つぼ湯なう!」なんて温泉に入りながらツイッターでつぶやいたりもしましたですよ(笑)。






完全個室、お一人様限定、一人30分までです。

ちなみに、入湯料750円です。
世界遺産の温泉を独り占めできることを考えると、この料金設定は非常に良心的です♪

かなり待ちそうに思えますが、実際30分使い切るひとはあまりいませんし、わりと回転はいいです。
よーかいが行ったときは、場所が山の中ということもあるのか、そこまで混んでいませんでした。
30分ちょっと待っただけで入ることができました。



ただ…、
この温泉、
規定は「一人用」なのですが……



……けっこうカップルで入っている「お二人様」がいるんですよね。。。(-_-;)
そういう羨ましい行為はただちにやめてくださいませ(爆)。



ともかく、一人でも特別な場所の特別な温泉。
また、一人だから故に自由な気分も味わえます。


なお、脇の川では温泉玉子を作ることもできるようでした。



さて、この旅では湯の峰温泉に浸かってあったまった後、川沿いを下って、次は熊野三山の二つ目に向かいました。



新宮にある、ナギの葉で有名な熊野速玉大社です♪(゚▽^*)ノ⌒☆




つづきます!  

Posted by よーかい at 21:46Comments(11)

2010年10月19日

ヤタガラスの道:3

書いた記事がことごとく、ヤタガラスに喰われてしまいました。。。


ええ、実はこの1週間、更新をさぼっていたわけじゃなくて、書いた端からヤタガラスについばまれていったのです。
もちろん、妄想ですけど。


ちなみにヤタガラス(八咫烏、やたがらす、やたのからす)は、日本神話で、神武東征の際に、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏です。
一般的に三本足のカラスとして知られています。


そんなわけで、たどり着いた熊野本宮大社では、入り口にどーーんと三本足のカラスの文様の巨大な幟が立っていました。





入り口からヤタガラス特盛りです。

なお、参拝道の階段では、真ん中は神様の通る道とされています。
参拝者は行きは(鳥居から向かって)右端を、帰りは左端を歩くことになります。

また、熊野三山において烏はミサキ神としても信仰されています。
ミサキは高位の神霊に従属していて、神霊が人間界に現れる際に、その予兆や使いのような役割を果たす小規模の神霊といわれています。
漢字で書くと「御先」。

なにかの予兆や前触れといった意味そのままですね。

ちなみに、岬太郎くんはここでは関係ありません。


駄菓子菓子!


岬太郎くんもあながち完全に無関係とは言い切れないのがこの熊野三山なのです!ヾ(。`Д´。)ノ


なぜなら、日本サッカー協会のシンボルマークはヤタガラスです。
ヤタガラスが日本のサッカーの“ミサキ”として世界へ連れていってくれるという意味が込められています。


そんなわけで、ここ熊野本宮神社でも、まさに日本サッカー協会協賛の(笑)、「サッカー守り」なるものがちゃっかり売られているのです。




……御利益がなんなのかはよくわかりませぬ。。o( ̄ー ̄;)ゞううむ


さらに、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社)はどこでも、今年のワールドカップ仕様のユニフォームに岡田監督を筆答に選手全員のサインを入れたものが奉納されているのです!





もうこうなると、一種のカオスな雰囲気も醸し出していますが、それだけではありません。


天照大神など神道系のビッグネームの神様を祀った社と並んで、ヤオヨロズの神様を祀る社もちゃんと存在しているのです!
これにはちょっと感動しました。


よーかい的には、他の神々よりも、真っ先にヤオヨロズの神様に参拝したのはいうまでもありません。


ちなみに、引いたおみくじは大吉!
良縁に恵まれるとありましたが……………その気配はまだ微塵もありませんが?(TwT。)(血の涙)



ともかく、とてもいい雰囲気の神社であったことは間違いないのです♪(*´▽`*)





※続きます!  

Posted by よーかい at 01:30Comments(2)

2010年10月12日

ヤタガラスの道:2

いざ、熊野へ!ヾ(。`Д´。)ノ


高速道路が美しいのは夜明けまでです。
連休中は道路が渋滞する可能性も大いにあるので、早朝まだ夜が明ける前に家を出て高速道路を走りました。

だけど夜が明けたあと、やっぱり眠くなって、途中のサービスエリアで仮眠。


……やがて上がってきた太陽が車を灼熱鉄板と化し、サウナ状態に。
滝のように流れ落ちる汗と喉の渇きで目が覚めました。


あやうく、仮眠が永眠になるところでした…((((;゚Д゚)))))ガクガクブルブル



そんなこともありながらも、大阪でちょっと混雑したくらいで大きな障害もなく、わりあい順調に和歌山県に入ることができました。
高速道路は和歌山市と南紀白浜の間くらいの「南紀田辺」という場所で途切れます。

あとは熊野までの約百数十㎞は一般道です。






熊野古道というと、うっそうとした森林地帯を思い浮かべるひとも多いと思います。
けれど、高速道を降りた後、車で走るアスファルトの一般道も実は熊野古道なのです。

これには、
「え??!」
ととまどう方が多いと思います。


そう、熊野古道は車で走れる道もあるのです。


むしろ、和歌山県南部の国道は基本的に熊野古道の一部といっても過言ではありません。


そして、熊野古道は一本の道ではなく、複数の道によって成立しています。
主なルートは、海沿いの大辺路、南部山中を横切る中辺路。
それに、高野山へと向かう一部奈良県を走る小辺路、さらには吉野への道も熊野古道ですし、三重県側には熊野古道伊勢路があります。

それらの大きなルートに、たくさんの側道、迂回路、連絡路、修験道での山道、江戸時代以前の旧道、江戸以降の新道などなど、様々な道が絡み合って、そのすべてが世界遺産熊野古道なのです。


だから、よく写真であるような『もののけ姫』のような風景ばかりではありません。(もちろん、『もののけ姫』にでてきそうな風景もあります。)

また、
「熊野古道って歩いたらどのくらいかかりますか?」
という質問に対しても、
「日帰りから半年以上まで」
としか答えようがありません。


そのくらい、多様性があるのです。


そんなわけで、よーかいは以前初めて熊野古道に来たときには、熊野古道伊勢路の一部の山道を徒歩で歩きました。
それは鎌倉時代くらいに伊勢参りに使われていた旧道だったそうです。
思った以上の山道で、ウォーキングシューズでは足の裏が痛くなるくらい大きな石がごろごろしていて、トレッキングシューズが必要だなと感じました。
その道は、だいたい4時間くらいで終わる道でした。

けれど、その後に走った海沿いの国道も熊野古道だと知ったとき、妙な違和感があったものです。
それは和歌山県の大辺路にあたります。
もちろん、舗装路以外にたくさんの脇道や旧道なんかが接続しているのですが、一見ごくフツーの国道なのです。


そして、今回走った道は和歌山県南部の山の中を東西に横切る中辺路コースでした。



このコースで行くと、一番初めにたどり着く熊野三山、

それは熊野本宮大社でした。





続きます☆  

Posted by よーかい at 01:28Comments(2)

2010年10月08日

ヤタガラスの道:1

熊野のことを文章化するのはとても難しいのです( ̄ω ̄;)


世界遺産「熊野古道」は、よく写真なんかで紹介される場合、うっそうと繁る森だったり、大自然が強調されることが多いです。



でも、ちょっと待ってください!

世界遺産にもいろいろ種類がありますが、熊野古道は屋久島や白神山地みたいに“自然遺産”として登録されているわけではないのです!

じゃあ、なんでしょうか?


実は、熊野古道はれっきとした“文化遺産”なのです!!!ヾ(。`Д´。)ノ


かつてここは修験道の聖地でした。
そして、熊野古道は伊勢詣でのための道でもありました。

気が付けば、ヤタガラスで知られる熊野三山自体でもかなりの格の神社なのに、東北東の方角には伊勢神宮、北西の方角には高野山、そして周辺の山々のすべてが修験道の聖地と、周囲のすべてをいわゆる「パワースポット」で固められているのです。

つまり、こういった
山岳霊場
参詣道
「(それらに付随する)文化的景観
の3つを合わせて世界遺産に登録されたのです。


また、熊野の自然を“原生林”だと思っている人も多いですが、それも間違いです。
熊野の山々の木々のほとんどは人間の手が加えられた二次林なのです。



ただ、ここでややこしい「ねじれ」現象がでてきます。

なぜ二次林なのか?
それは、大昔から人と自然とのつきあいが長くて深い場所だったからです。


そして、文化遺産であるということ。
これは、自然がたいしたことないということではありません。

むしろまったく逆です。


熊野の神様は自然そのものなのです。


一見神道のふりをした熊野三山という神社は、神道に組み入れられる以前からの歴史を持っています。
それはむしろ“アニミズム”に近いもので、自然そのものや、周囲の万物=ヤオヨロズの神々を祀っていた場所でもあるのです。


つまり、自然が凄すぎて、その自然を敬う気持ちがまず先にあったのです。



こんなのを前にすると、大きすぎて手に負えない気持ちになるのです。

いわば、カリオストロの本当の財宝を目の前にしたルパンが、
「こいつぁ、俺の手にはおえないや」
と、何も盗まずにその場を立ち去った気持ちと同じです。





それでも、そんな途方もない場所の、ほんの一角。
重箱の片隅をつっつくような視点でなら書くこともできるのかもしれません。




ま、もともとそんなに深いこと考えて旅するわけじゃありませんから…!ヽ(゜▽、゜)ノアハ




では、気楽に始めましょうか?(笑)  

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2010年10月06日

ヤタガラスの道:0

9月の連休、ヤタガラスに導かれて熊野に行って来ました。




最近では世界遺産の「熊野古道」の名前だけは知られた和歌山県熊野地域。

実はこの場所は、東京から日本国内で最も心理的に遠い場所なのだそうです。

地理的に遠い北海道や沖縄県には飛行機が頻発しています。
その他の地域も、新幹線やその他の公共交通機関を使ってその日のうちに行くことができます。
自家用車があれば、高速道路を使って、さらに自由自在にどこへでも行かれるように思えます。


しかし、どの交通手段を使っても、とても遠いのが熊野なのです。
和歌山の中心部からもものすごく離れています。
そもそも、和歌山まで行くのに、直行で行ける手段がほとんどないのです。


そういうわけで、首都東京から最も離れた場所と言われる熊野。


ゆえに、守られている貴重なものもあるのです。





熊野のシンボルはヤタガラス(八咫烏)。


三本足のカラスです。


このカラスにまつわるお話もなかなか興味深いものがあります。

そして、日本が世界に誇る大博物学者であり、粘菌学の権威、南方熊楠さんゆかりの地でもあります。

さらに、熊野三山といわれる素晴らしい神社があります。



熊野古道だけではない熊野!

この地域について、どうタビニッキを書いていくか、まだ実は頭を悩ませているのです。

だけど、忙しさにかまけていると、あっという間に過去の忘却の彼方に置き忘れてしまいそうです。
それは避けたいのです。



そんなわけで、ぽつぽつマイペースに熊野旅のことを書いていきたいと思っています♪(゚▽^*)ノ⌒☆  

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2010年09月28日

普天間見聞録。

今話題の普天間基地を見てきました。


9月25日晴れ。
お昼12時から沖縄市陸上競技場でFC琉球の試合があったため、那覇から原チャリで58号線を北上しました。
その途中、時間もあったので嘉数高台公園展望台まで足を伸ばしてみたのです。





あくまでサッカーのついでのゆるーい見聞です。
とはいえ、沖縄に足繁く通い、実家もあり、沖縄タイムスも毎日インターネットで読んでいると、それなりに思うところもありました。


まずは普天間飛行場の近くから。
もちろん、基地があっても普通の人々の普通の生活があります。

一般的に報道されるような普天間地区の緊張関係なんて一瞬で大気圏外まで吹っ飛ばすような脱力感を抱かせてくれる、交通標語の看板が3連チャン(笑)。
こういうものは、新聞やニュースをいくら見ても誰も知らない普天間周辺の生活の一面です。









………もはや、どこからツッコめば?( ̄ω ̄;)



さて、そんな看板を横目に嘉数高台公園展望台へ。
この公園の展望台は、ニュース番組で普天間飛行場を撮影するときに必ず使用される場所です。
普天間飛行場まではちょっと距離があるのですが、周辺住宅街も含めて、普天間飛行場が一望できるのです。

ちなみに、嘉数高台公園と普天間基地周辺の位置はこのようになっています。





これを、もうすこし普天間基地をクローズアップして撮影すると、こんな感じになります。





住宅街のど真ん中に基地があるのです。
そもそも、沖縄の基地はもともと住宅があった村々を、「銃剣とブルドーザー」で強制収容して米軍が奪い取って勝手に作ったものです。
基地の周りに住宅があるのではなく、住宅の中に基地が作られたというのが正しいのだと思います。


世界で最も危険な基地だとも言われています。
以前の香港の飛行場のように、住宅街の中に飛行機、それもここでは弾薬を積んだ軍用機が突っ込んでいく構図です。

実際、2004年には普天間飛行場近くの沖縄国際大学の構内に軍用ヘリが墜落しました。


そして、ここ普天間に駐留しているのは海兵隊。
先制攻撃のための部隊です。
ベトナム戦争時もイラク戦争時も、ここから派遣されていきました。

裏を返せば、海兵隊は守備は一切請け負わない部隊です。
そして、アメリカの戦争の時には沖縄を留守にするのです。


このどこにいわゆる「抑止力」が?


沖縄の金武で訓練を行っている特殊部隊グリーンベレー(米特殊作戦陸軍)とともに、戦時下の地域で、人殺しをおこなう能力だけに特化した部隊といえるでしょう。


見渡せば、普天間基地の左手には海が青く広がっています。
あまりに対照的な風景が同時に眼前に広がっているのです。





そして、眼を近くに戻せば、嘉数高台公園の展望台には、基地のない沖縄を願う、黄色いリボンが無数に巻かれていました。






サッカーの帰り道、コザに寄り道したとき、米兵の「Yナンバー」の車が事故っている光景に出会いました。
そこは基地の外ですが、日本の警察は関与できません。

迷彩服を着た、コワモテの「ポリス」が米兵の事件・事故はすべて処理します。





沖縄国際大学にヘリが墜落したときも、米軍用のポリスが来て、事件をもみ消していきました。
日本の警察も、事件の被害者の大学関係者も、一切近づくことすら禁止されました。

完全な治外法権が沖縄にはあります。



これが、東京や大阪だったらどうでしょう?
いや、そんな大都市でなくても、内地の地方都市でもどうでしょう?



しかし、それを伝えるべき報道も「腫れ物に触る」かのように、ほとんど無視を決め込むのが慣例になっています。
沖縄国際大学にヘリが墜落した際には、オリンピック報道にかき消されて、内地の主要新聞はほとんど記事にしませんでした。
つい先日、名護の民意が、辺野古への普天間移転を明確に否定したときには、それにかぶせるかのように尖閣諸島のニュースで目先を逸らして「なかったこと」にしてしまっています。

けれど、沖縄では「なかったこと」どころか、まさに今そこにあり、そしてそういった大きな事件事故だけでなく、米兵の犯罪や事件事故は日常茶飯事に市民生活を脅かしているのです。
沖縄の新聞を日常的にそのような記事が一面を飾っているのを見ると、内地の感覚では衝撃的です。


要は、沖縄県だけで封鎖されて、そこから先には知らされないようなメカニズムが働いているのです。


もちろん、沖縄もかつては基地依存経済でした。
基地がなくなると雇用もなくなり、経済的にもやっていけないというジレンマもありました。

しかし、もはや基地依存経済は終わりを告げようとしています。
基地の街コザは多くの商店がシャッターを閉めています。
逆に、返還されたかつての基地や米軍施設だった北谷やおもろまちでは、その跡地に建てられた施設や商店がとても賑わっています。

シンクタンクによる試算でも、返還された跡地にできた街は、経済的に大きな黒字になっていることが証明されています。
これは沖縄だけでなく、フィリピンなどの他の旧米軍基地跡地も同様なのだそうです。


尖閣諸島の問題にしても、米軍はノータッチです。
そういう部分だけ見ても、(好きな言葉ではありませんが)どっちが“国益”かは火を見るよりも明らかでしょう。

そもそも、沖縄に巨大な軍事施設が集まっていることが、周辺各国に緊張関係を強いているという側面もあるのです。



琉球は、軍事力を持たない国家でした。
外交によって、うまく切り抜けてきた歴史を持っているのです。



そう、米軍基地も自衛隊も、沖縄には必要ないのです!!!ヾ(。`Д´。)ノ  

Posted by よーかい at 02:15Comments(4)

2010年09月23日

北海道ほぼ縦断チャリンコ爆走記:7

宗谷岬まで走り終えて稚内へ。


宗谷岬では、最北端到達証明書なるものもお土産屋さんで発行してもらいました♪
さすがにそこまででもうかなりの力を使い果たしてしまい、帰り道は逆風ということもあり、ノロノロ運転でした。

稚内市街のユースホステルに着く頃にはもうとっぷり日は暮れていました。





あとはもう、サッカーでいうならロスタイムみたいなものですが、それでも旅はまだ終わってはいません。
走りきった自分へのご褒美(?)に、普段ならしない、ちょっとした贅沢を。

3000円のウニ丼です♪
北海道のウニは、内地とはまったく違います。
内地のウニは、保存用にすべからくミョウバンを使っているので、別物みたいな味になっちゃっているのです。
北海道では、変な臭みも雑味もなく、旨味だけのつまったウニを食べることができるのですヽ(≧▽≦)ノ


それにしても、北海道は食べ物が美味しすぎます。
何を食べてもとんでもなく美味しいというのは感動ですが、逆に北海道人が内地に来たら餓死しちゃうんじゃないかと心配になります。
そして、北海道人はなぜあんなに美味しいものばかりに囲まれながらも、多くの人は肥満にならずに過ごせるのか不思議でなりません。
道産子、恐ろしい子………! (ここは月影先生のように白目でお願いします。)





だいたい、ビールにしたって北海道限定サッポロクラシックは旨すぎるのです!ヾ(。`Д´。;)ノ

けれども、この旨さ、内地に持って帰るとそのカリスマ性は半減します。
やはり、北海道の気候風土、そして食べ物に合っているビールなのでしょう。

全国各地、様々な地ビールがありますが、大手メーカーとはいえ、もう1位はサッポロクラシックで決まりでいいです。
2位はもちろんオリオンビール☆
その南北のワンツーフィニッシュで決まりです!
(3位は周回遅れ?で銀河高原ビールでしょうか?)





翌朝は、宿をチェックアウト後、ノシャップ岬へ。
事前の天気予報は雨でしたが、またもや見事に晴れました。(しかも、よーかいが北海道から飛び立った後、大雨になったそうです。)

さすがに筋肉痛で全身ぎしぎしでした(苦笑)。
200km弱ならわりとなんてことないのに、250㎞オーバーの距離を走ると、かなり体への負荷が変わってきます。


そういや、昔とんねるずが
“♪ノシャップは~~人情~み~さ~き~~~♪”
と歌っていたことを覚えているひとって、何歳くらいまでの世代なのでしょうか?


ノシャップからは、途中郵便局やお土産屋さんに立ち寄ったりもしながら、稚内空港まで走りました。
稚内空港で自転車を解体して、新千歳空港へ。

新千歳空港での最後の北海道の美味は、牛乳でした。





ただの牛乳なのに、なんでこんなに美味しいんだろう?


道産子、恐ろしい子………! (もういいって)



この食に関する不平等は許せませんですってば!!





なので、いつか今度は日本最東端を見にまた北海道を訪れる決意なのです!o( ̄へ ̄*)むん



※北海道ほぼ縦断チャリンコ爆走記、ひとまず完!
 どうもありがとうございました!!  

Posted by よーかい at 00:41Comments(8)

2010年09月18日

北海道ほぼ縦断チャリンコ爆走記:6

いよいよ、日本の最北端宗谷岬へ!


標識の「宗谷岬まで○○km」という表示が、カウントダウンのように減っていきます。
遠くにもやがかかったように見えた半島が、気が付けば目の前に迫ってきて、北海道らしい風力発電の風車を横目に、あるいは間宮林蔵の碑を横目に観ながら最北の岬の先端部へと進んでいきます。
風もよーかいが進む背中を後押ししてくれました。


そして、「それ」は唐突に現れました。
以前読んだ『ハチミツとクローバー』から、岬の先端部は一本の道になっているように勝手に思いこんでいたのですが、半島の両側からゆるやかなカーブを描いたその頂点に最北端は存在していました。





日本最北端、宗谷岬です。



夕方17時10分着。
サイクルコンピューターを見ると、その日の朝に留萌を出発からの走行距離は220㎞を超えていました。

新千歳空港からの総走行距離は415km。

北海道の南から、ほぼ縦断するような形で、自分の足で走りきったのです。
それも、実質2日で。

人間、やればできるものです☆

そしてこれにより、(有人島の)日本最南端波照間島、日本最西端与那国島、日本最北端宗谷岬の3つをコンプリートです。
残すは日本最東端だけです。
いつか待ってろよ!(笑)



ちょっと大げさなことを言うと、きっと誰もが多かれ少なかれ、
「世界の果て」
を見たい願望ってあるのだと思うのです。

もちろん、その「世界の果て」は単に地理的なものではなく、心理的な要素が大きいと思います。
ある人にとっては、住んでいる島が海に連なる場所が果てかもしれません。
またある人には、前人未踏の辺境こそが「果て」かもしれません。

でも、どちらにせよ、自分が行くことのできる限界地点を知りたいという願望は多かれ少なかれあると思うのです。
少なくとも、よーかいにはそれがあります。


例えば、自分がどこまでやれるのか?
それが知りたくて、大学時代なんていろんなムチャをやってみたり。

自転車で最北の地に向かうのも、どこかできっと
「限界なんてこんなもんじゃない、こんなんじゃない」 (by“The pillows”)
という気持ちがあったのだと思います。


そして、やってみると、思った以上に人間はやれるものなのです。
もちろん全然万能じゃないですし、すぐに、何度も壁にぶち当たります。

それでも、自分が思っている以上に、限界は先にあるのだと、実感します。



そして、ここは、『ハチミツとクローバー』で、竹本君が最後にたどり着いた場所。
彼が観た景色。
同じ場所に、自分もいます。
彼と同じく、自転車で。

なんだかちょっと、感無量でした。
(どうでもいい余談ですけど、映画版だと竹本君は東京から湘南海岸まで走っただけで引き返してきちゃうのでがっかりでした。笑)




もっとも、宿がある稚内まで、そこからさらに30㎞近く引き返さなければなからなかったのでしたけど…(; ̄∀ ̄A(爆)


もう一回くらい続く……かな??






おまけ:


「限界なんてこんなもんじゃない、こんなんじゃない」
そう歌詞にある、the pillowsの名曲『ハイブリッドレインボウ』をBUMP OF CHICKENがカヴァーしたヴァージョンです。
原曲よりも落ち着いたアレンジになっています。



  

Posted by よーかい at 04:11Comments(2)

2010年09月16日

北海道ほぼ縦断チャリンコ爆走記:5

北海道最北までいよいよ大詰め! 


豊富町あたりの国道40号と国道232号の重複区間に入ると、本格的に民家も通行人もいなくなり、車の交通もほとんどなくなります。
あるのは牧場か山林ばかり。
とはいっても、ニュージーランド南島みたいに、丸一日走っても誰とも出会わないという恐怖はありません(笑)。
たまに宗谷本線(終点は稚内)の線路が近くなったところで1輌ディーゼルの列車と擦れ違ったり、草原で野生のエゾシカが草を食べている光景にも出会いました。


基本的に、南から宗谷岬まで北上するメインルートはこの道なのです。
つまり、羽海野チカ先生の『ハチミツとクローバー』で竹本君が自転車で宗谷岬目指して走った旅も、きっとこの道を通ったのだなぁ…と思うと、少し感慨深いものがありました。

そう、『ハチミツとクローバー』を読んだとき、竹本君は一番親近感のあるキャラでした。
自分自身、同じルートで松島まで自転車で北上していたこともあったのでした。
だからいつか、竹本君が観た北海道の風景をこの目で、自転車で走って観てみたいとずっと思っていたのです。





とはいえ、このあたりまでですでにこの日百数十㎞走っているのです。
だんだんと、足が重くなってきているのも感じていました。

また、コンビニや食料品店はおろか、自販機の一つもありません。
自転車につけたボトルの水をかなりセーブしながら飲むことになります。

やっと自販機に遭遇したときには、
「自販機、神!」
と思わず叫びたくなりました。

なにしろ、牧場はあっても、牛乳を即売しているような場所はないのですもの……(TwT。)





そしていよいよ稚内市へ突入!
「牛の横断注意」
の看板が、いかにも北海道です(笑)。

とはいえ、稚内市内に入っても、中心部までは20㎞くらいありますし、宗谷岬はそこからさらに30㎞近くも先なのです。


けれど、稚内市内にたどり着いて、少し元気を取り戻したのも事実です。
このままいけば、日が暮れるよりも前に宗谷岬に着けるはず。





稚内中心地は、「唐突」といった感じで出現しました。
普通、市街地に入る前には、民家や商店などがだんだん増えていって少しずつ街らしくなっていくのですが、稚内市街地は突如として出現したとしかいいようがないほど、それまでの風景からは特異な場所でした。


そして、海風。


潮の香りが、最北が近いことを感じさせてくれます。
稚内市街地を超えて国道238号線に入ると、看板にもいよいよ宗谷岬の名前がでてきます。

このあたりの道路標識は、すべてロシア語併記です。
実際、日本の果てまでもうすぐなのです。
ここからなら、本州よりもロシア領の方がずっと近い場所です。

稚内在住のロシア人もかなりの数にのぼるようです。
お店なども、ロシア語の案内板がかかっているところも多く見かけました。





顔文字以外にも、ロシア語を日常で見かける場所、それが稚内なのです!( ̄Д ̄;)(←※この中にもロシア語が潜んでいます。笑)


続きます!








おまけ:

ロシアということで、The Beatlesの『Back in the USSR』です。
今はもう「USSR=ソビエト連邦」はなくなっちゃいましたけど…σ(^_^;)


  

Posted by よーかい at 00:52Comments(0)

2010年09月13日

北海道ほぼ縦断チャリンコ爆走記:4

留萌から最北までは一気に北上です!o( ̄へ ̄*)むん


地図で見ると、ざっと軽く200㎞は超えています。

雨とか風とか、あるいは当日のコンディションとか路面状況とか、不安要素は数え上げればきりがなかったのでしたが、まあ春には沖縄本島一周やら琵琶湖一周やらで1日に200㎞以上を体験しているので、多分大丈夫……だいじょうぶなはず……だいじょうぶだよね?…ですか?な感じでのコース選択です。

なにしろ、社会人の夏休みはとても短いのですし、宿(ユースホステル)の予約は稚内にしちゃっているのです。
たどり着かないわけにはいかないのです。


事前の天気予報は雨。
朝起きた時には前日の晩からかなり激しい雨が降っていました。


出発準備をしていると、朝のトレーニングを終えた旅仙人がやってきて、
「こんな中、走れるのかい?」
と言ってきました。

しかし、よーかいには雨が止むという確信がありました。
なにしろ、よーかいは超晴れ男ですから!v( ̄ー ̄*)にぃ

ただし、そんなことを根拠に「雨は止みますよ」とは言えなかったので、「止むといいですね」とこたえて、朝食をもぐもぐ。
すると、朝食を食べ終わる頃には見事なまでにぴたっと雨は止みました。
うーむ、自分の才能がこわいです(笑)。


朝、7時20分過ぎに『みつばちハウス留萌』を出発。
入り口で、旅仙人と、ちょうど起きてきた一昔前の江口洋介みたいな風貌の兄ちゃんが見送ってくれました。





留萌からしばらくは海沿いの道を走ります。
道はこれまでに比べるとアップダウンがありますが、沖縄のやんばる東海岸に比べたらなんでもありません(笑)。

幸いなことに、風は南風。
背中を押してくれます。
苫前まではあっという間でした。

しかし、道路標示を見ると、稚内まではまだまだ百数十㎞以上あります。
そして、宗谷岬は稚内からさらに先なのです。

あんまりのんびり走るわけにもいかず、時速30㎞弱くらいを維持しながら(よーかいにしては速いペースです。)ずんずん進んでいきます。


海沿いの道では、リアルマリノス君(ただのカモメともいいます)が自転車が50㎝の距離まで近づいてもまったく逃げずにガードレールに止まっていました。
昔ながらのニシン番屋の跡や、バラック小屋みたいな漁師達の小さな家。
冬の厳しさをいやがおうにも連想させる、急傾斜の屋根の家々。


少し早めのお昼ご飯は、道の駅富士見で地元名物のタコづくし♪




この日はもやがかかったような天気だったのでよく見えなかったのですが、「富士見」ということは、きっと天気のいいときには利尻島の利尻富士が見える場所なのでしょう。

北海道では、自転車で旅をしている人たちも夏場はけっこういます。
道の駅で休憩していると、初対面の人でも話しかけてきてくれます。

走っている最中も、自転車同士が擦れ違うときにはお互い自然に笑顔で手を振ります。
ときには、追い越していくバイク乗りが、片手をあげて挨拶しながら通り抜けていくことも。
こちらも、バックミラーに映っているだろうことを期待して、手を振りかえします。


そんなふうにして、ずんずんと北へ北へと進んでいくのです。
頭の中で流れるBGMは、くるりの「ハイウェイ」でも「ワンダーフォーゲル」でも、あるいはSING LIKE TALKINGの「Lestless」でもよかったのですが、ずっとエンドレスでフラワーカンパニーズの「深夜高速」がかかっていました。
♪青春ごっこを今も 続けながら旅の途中~♪
そのまんまじゃん、と苦笑しながらも口ずさんでいます。



ところで、走りそのものはわりあい順調でしたが、手塩(てしお)を過ぎたところでちょっとした計算違いが。
本当は、ずっと海沿いを通って稚内へ行くはずだったのですが、「稚内」という看板につられて手塩を右に曲がってしまい、内陸の国道40号(この区間は国道232号線とも重複)へと入ってしまいました。


海沿いを進むはずが、なぜか牧場だらけ!∑( ̄□ ̄;)ハウッ
無性にピンクフロイドが聴きたくなって困りました。





ピンクフロイドの名盤『Atom Heart Mother(日本語タイトル『原子心母』)』そのままの風景がどこまでもどこまでも拡がっています。
どこまで行っても、牛、牛、牛………。


しっかし、「原子心母」ってタイトルの意味がわかりません…( ̄ω ̄;)
しかも、なぜに牛のジャケットなのでしょうか??


そんなことを漠然とぼんやりといろいろ考えるともなく考えながら走っていました。
アグレッシブな走りではなく、プログレッシブな走りです(意味不明)。



けれども、もっと切実なこと。




空気が確実に、牛の「落とし物」臭いのですよ…!(TwT。)



あ、つづきます。


おまけ:
ピンクフロイドの「原子心母」というタイトル曲は、組曲みたいになっていて25分もあるのです!
それはちょっと長すぎるので、同じアルバムに収録の『Summer '68』です。
彼らの夏から、42年も経った夏を走っていたんだなぁ…。(※アルバム自体は1970年の発売なので、40年前です。)


  

Posted by よーかい at 01:50Comments(0)

2010年09月10日

北海道ほぼ縦断チャリンコ爆走記:3

まずは留萌を目指して!


滝川から北西に折れ、真っ直ぐな道は終わります。
石狩川を渡り、地図で見るとちょっとした峠越えの様相でした。

その前に、こんな広告塔が!





『太陽を味方につけたまち』


冬場は極寒の地域のはずなのに、やけに大きくでたものです( ̄ω ̄;)


そして道はちょっとした山道っぽくなりましたが、たいした標高差もなく、緩やかな登りと下りがあっただけでした。
ただ太陽がぎらぎらと照りつけ、頭から水をかぶってもすぐに乾くくらいの気温だったのと、サイクルジャージにパッド付きのサイクルスパッツであってもサドル部分が痛くなってきたことだけが難点でしたが…。


けれども、この日は意外なほどあっけなく、午後3時過ぎには留萌に到着。




宿泊場所は『みつばちハウス留萌』というライダーハウスです。
この施設、なんと無料です!

もちろん、無料でもちゃんとお布団はありますし、キッチンも自由に使えます♪
ただし、この施設を使えるのはライダー、つまりバイクで旅をする人と自転車で旅をする人のみという限定条件が付きます。

受付はちょっと離れた場所にあるバイク屋さんで行うのですが、宿の説明を受けているとき、そこのおやじさんはよーかいを見て、
「タバコは所定の場所だけど……まだタバコを吸える年齢じゃないね
と事務的な口調で言いました∑( ̄□ ̄;)ハウッ


沖縄に続き、北海道でも未成年疑惑が!(笑)
やー、なんだかもう苦笑です。
ちなみに、旅先では「大学生?」と訊かれることはあっても、「お仕事はなんですか?」とまず訊かれるということはありません。
スーツ姿で泊まっても、「就職活動ですか?」と訊かれたこともありますですよ…(TwT。)


話を戻して、この『みつばちハウス留萌』、お風呂だけはないので、近くにある銭湯に入りに行きます。
銭湯でさっぱりしてから、「日本一」とも言われる(留萌の自称かもしれません。笑)夕陽を見にいきました。





日本一かどうかは脇へ置いておくとしても、素晴らしい夕陽であったことは事実です。


夕陽を見た後、晩ご飯を食べてから宿に戻りました。
留萌、飲食店は基本夕方6時に閉まるのがデフォルトみたいです。
ラーメン屋ですら、夜7時には看板を下ろしていました。
内地感覚で判断を誤ると、せっかくの北海道の旅でもコンビニでおにぎりを買うしかないディナーになりかねないので注意が必要です…((((;゚Д゚)))))ガクガクブルブル


さて、宿に泊まっている人たちはとても個性派でした。
旅の初心者もいますが、ほとんどは百戦錬磨の旅人達でした。

みんなあちこち旅していますし、自転車で日本一周の途上の人もいました。

けれど、それを遙かに凌駕する“旅仙人”(よーかいが勝手に命名)がおわしました!


一見すると60代くらいにしか見えないのですが、83歳とのこと。
冬の間は京都で漆器職人をしていて、春になると自転車で北上して北海道に長期滞在に来るのだそうです。
それがもう二十数年続いているのだそうです!
(ちなみに、その自転車は昭和40年代前半に組んだものをずっと使っているそうです。)

海外で訪れた国は87か国!
昭和30年代には3年かけてシルクロード横断を果たしたそうな。


すごいです。
もう驚愕の一言です。


「昨年入院をしてからずいぶん体力が落ちた」
と言いながら、毎朝4時に起きてから最低1時間は走ることが日課だそうです。
(事実、よーかいが泊まった翌朝も、朝出会ったときはトレーニング後でした。)

80過ぎて京都から自転車で北海道に来ることができてしまうなんて、人間の可能性はまだまだ思っている以上にすごいのかもしれません。
こういう人を見ていると、200歳で生きている人間がいても不思議じゃないよなぁ…とも思うのです。

きっと、「不明」とされている戸籍上で200歳近くのひとの何人かは、うまく世間から目をくらます術を身に付けて、いまも生き延びているのでしょう。



それともう一つ、『みつばちハウス留萌』での名物がありました。
それは、
焼酎のカツゲン割りです。


「カツゲン」とは、北海道だけで売られている、パック入りの乳酸菌飲料です。
現在のゼロカロリーブームに反旗を翻すかのような高カロリー。
そして、かなり濃縮したかのように濃い乳酸菌飲料なのです。



「焼酎のカツゲン割り」といっても、実態はカツゲンを焼酎で割るといった方がただしいかもしれません。


なにせ、割る比率は、
焼酎9:カツゲン1
なのですから!!!!!ヾ(。`Д´。;;;;)ノ


ただ、この飲み方、おそろしく飲みやすくなるのです。
焼酎は一升のパックが千円以下の粗悪品でも、カツゲンが入るだけで質の悪さがわかんなくなります。


そんなこんなで、旅人同士の語らいと焼酎のカツゲン割りで夜は更けていくのでした…。


翌朝、あやうく寝坊しそうになったのは言うまでもありません(爆)。
てなわけで続きます!  

Posted by よーかい at 03:30Comments(2)

2010年09月08日

北海道ほぼ縦断チャリンコ爆走記:2

北海道二日目、札幌を出発。


実質、その前の日はたいして走っていないので、本格的に走るのはこの二日目からなのです。
この日は留萌まで。
距離にして140数㎞。
(国道12号を使用したので、少し距離のロスがあったようで、もう少し近いルートもあったようです。)

まあ、それほどの距離ではありません。

基本的に平坦で、いくらか退屈な風景の道が続くところが多いのですが、突如として非日常的な風景が現れたりします。
例えば、この看板。




『江別市まで40000㎞』


そ、それってどんだけですか!?∑( ̄□ ̄;)ハウッ
『もっとがんばるまち』って、それ頑張りすぎですから!


つか、要は江別市を抜ける前に、「あと地球1周したらまた江別市に着きますよ」というメッセージ(?)なんですけどね。



こういう「仕掛け」がなくても、北海道慣れしていない身には妙におかしく感じる看板もたくさんあります。
バス停の駅名が『7号』とかだったり(これが誰かの「愛人」とかにちなんでいたら笑えます。)、アイヌ語を無理矢理漢字で充てたのがみえみえの地名とか。
あるいは、
『大麻』
なんてあって、「たっ、たいま?!」と思ったら「おおあさ」と読むのだったり。
『増毛』
と書いて「ましけ」という地名とか。
田中マルクス闘莉王選手は訪れるべき地名だなぁ…なんてことをぼんやりと考えるともなく考えながら走りました。


そして、日本で一番まっすぐな道。




直線道路日本一のモニュメントです。
このモニュメントから、実に29.2㎞にわたって一つの緩やかなカーブもないひたすら真っ直ぐな道が続くのです。


ここに種田山頭火がいらっしゃったら、さみしさに打ちひしがれて死んでしまうことでしょう。
まっすぐな道でさみしい
と。
いや、むしろそのときどのようなリアクションを取るのかを楽しみながら、山頭火を無理矢理歩かせてみるのもいいかもしれません。(何のプレイでしょうか?)


そんなさみしさに耐えるべく、自転車乗りは道の駅に立ち寄ったりするのです。
や、単にトイレ休憩だったかもしれません。(ヲイ)


休憩ついでに北海道名物「ゆでとうきび」を購入。
100円也。




絶妙な塩加減です!
そしてなによりも、とうきび(とうもろこし)の柔らかさと甘さといったら!!!

北海道の凄いところは、何を食べても美味しいことです。
北海道で不味いものを見付ける方が難しいくらいです。

北海道を旅して、美味しいものに巡り会わなかったら、それはむしろその人の“才能”として誇ってもいいでしょう!ヾ(。`Д´。;)ノ
……できれば、埋もれたままにさせておきたい才能ですが。。



広大な大地、真っ直ぐな道、天気は青空。
まごうことなきピーカン。


事前の天気予報では曇りときどき雨だったのに。
またもや、晴れ男パワー全開で雨雲に勝利しました♪v( ̄ー ̄*)にぃ


実は事前には天気と、気温の低さを心配していたのです。
8月下旬ではもうかなり寒いんじゃなかろうか、と。

例年ならその通りなのですが、今年は太陽が特別に気合いを入れて頑張っています。
「気合いやで!」
なぜか関西弁で、それは略すと「KY」にもなるのです。


そんなわけで、北海道とは思えないくらい暑かったです。
まさに、夏をダイジェスト版で取り戻している感じです。
事前の思惑以上!(爆)


数リットル以上の水やスポーツドリンクを飲みながら、自転車を漕いでいくのです!



旅はまだまだ序盤なのです!o( ̄へ ̄;)む…むん


※続きますよ。  

Posted by よーかい at 02:31Comments(0)

2010年09月04日

北海道ほぼ縦断チャリンコ爆走記:1

夏を追いかけにいきました。


夏休みは短いものですが、社会人にとってのそれはさらに短いのです。
そして、どんなに暑くても、いつか夏は、8月は終わってしまうのです。


そんなわけで、8月の最終週の週末、短い夏休みをとって北海道へ行って来ました。
けっして『サマーウォーズ』みたいに劇的でも、かわいいヒロインがでてくるわけでもないけれど。






ついこの間まで、神奈川県の小学校教員採用二次試験でした。
それに、日々のお仕事に生活に。

気が付いたら、盆も旧盆もなく過ごしていました。
4日間取得できる権利のある職場の夏休みのうち半分は、受験のために使っていました。

残り2日の夏休み。
それを、8月最後の土日にくっつけて、8月27日(金)から30(月)までの3泊4日、今年は自転車で北海道を走ることにしました。


目標は、最北端まで!



朝、いつもの時間に起きて、ブログ記事をアップして、それから自転車を磨いて旅支度。
飛行機はお昼前の出発。

いつものごとく、乗り物に乗るとすぐに寝てしまい、気が付いたらそこは北海道の午後。





輪行してきた自転車を組み立てて、空港で遅めのお昼ご飯。
ストレッチして出発する頃にはもう午後2時30分過ぎ。

初日は、ホンの足慣らしです。
この日は新千歳空港から札幌市内までのわずか40数㎞の道のりです。

新千歳空港は、札幌よりも南東に位置します。
だから、札幌まではちょっと距離があるのです。


走り始めた千歳市内はいい天気♪
空港周辺こそ道路の流れがいまいち読みにくかったですが、そこをすぎると北海道特有のわりとまっすぐな道になります。

荷物は自転車のサドルとボトルケージに積んだ少量と、マウンテンスミス社の『TOUR』という腰の後ろに付けるタイプのやや大きめのウエストバックが一つ。
それだけ。
自転車には念のためライトを2つと、着脱可能な泥よけをつけていますが、基本はロードバイクです。(タイヤは28Cとやや太めですが…。)


札幌近くまではすいすい。
でも札幌市内に入ると急に交通量と信号が増えて、のろのろ運転になりました。


そんな渋滞と信号に手間取ったとはいえ、4時半よりも前には札幌駅に到着です。





本当は宿泊予定のユースホステルはもっと手前だったので、駅から再びのんびりペースでユースホステルへと向かいました。
チェックインして早めのお風呂も浴びて、それでもまだ日暮れ前。

駅前をぶらぶらしているうちに、だんだんと夕方の帳が降りてきて、本格的に夜が更けていきました。
北海道は、日本国内では東寄りになるので、よーかい棲息地よりも夜が早いことを感じました。
ここでも、確実に夏は終わりに近づいているのです。





さて、何を食べようか……



……と思ったところで、時計台の脇にふと目に付いたのがこの看板。







ぎゅ、牛乳ラーメンっ!?∑( ▽|||)




なんだか、うっかりラーメンスープの鍋に牛乳を大量にこぼしてしまったからそのまま売っちゃえ!みたいな雰囲気です。
『新感覚でまろやかな風味』
とはあっても、
“美味しい”とは一言も謳っていないのがミソです(笑)。


もし、よーかいが札幌に長期滞在か住んでいたのだったら、一度は試してみたいと思います。
でも、これは貴重な貴重な旅の一夜。
牛乳ラーメンにその一夜を奪われてしまっては台無しになってしまうかのうせいだってあるのですヾ(。`Д´。;;;;)ノ
あえてバクチを打つメリットがありませんでした。。。


……なのに、帰ってきてからもなぜか牛乳ラーメンに後ろ髪を引かれている自分がいます(爆)。




結局、その晩はジンギスカン食べ放題をいただきました。
しかし、いかんせん食べ過ぎました。


歯を何度磨いても、ずっと口の中がラム肉臭いのです。
もうこれは、胃や内臓から伝わってくるラム肉の匂いでしょう…(-_-;)

ラムはもうしばらくいいやと思ったのだっちゃ。(だっちゃ?)


肉食系男子にはほど遠いと痛感させられてしまった札幌の夜でした。(違)


そんなわけで、続きます。  

Posted by よーかい at 00:24Comments(2)

2010年08月05日

葡萄牙国訪問記:19

今日はどこでも応用可能な旅の穴場的オススメスポットをご紹介なのです!v( ̄ー ̄*)に


旅にはいろんなスタイルがあると思います。
観光地を巡る旅、のんびりできる自分だけの空間を訪れる旅、好奇心を満たしてくれるものをさがす旅、などなど。

よーかいの場合、観光地は見ることがあっても「ついで」です。
観光地目当てに旅をすることはあまりありません。

基本、足の向くまま気の向くまま旅をしますが、必ず訪れる場所もあるのです。


それは、市場とスーパーマーケットです☆


旅をしたからには、強烈に「その土地」を感じられる場所を歩きたいです。
そして、できればその土地の生活を実感したり、地元の人たちとちょっとした交流ができればなおさらグッドです。

そういう場合、ファーストチョイスはなんといっても“市場”です。

市場は時間をうまく見計らえば、とても活気があり、まるで屋台の縁日みたいな高揚感を与えてくれます。
下町的なノリで、外国人でも気軽に声をかけてきてくれるのもありがたいです。

だから、市場があれば真っ先にそこを目指します。


でも、訪れた街や町のすべてに市場があるわけではありません。
時間帯も合わないこともしばしばです。


それでも、我々にはスーパーマーケットがあるのです!ヾ(。`Д´。)ノ


(※この写真の出典はここから。)

スーパーマーケットなんて、どこでも同じだろう?なんて思ったらとんでもない!
一見均質的に見えるこの日本ですら、地域性がくっきり現れるのがスーパーマーケットなのです。
だから、よーかいは日本でも初めて訪れる土地では必ずスーパーマーケットをぶらぶらします。

例えば、沖縄と内地では、入り口に入ったとたん目に飛び込んでくる野菜の種類からしてまったく違います。
具体例として、「うりずん」という野菜はうちなーんちゅの方々には常識でも、内地の人でわかるのはマニアだけなのです。

宮古島のスーパーでは、パック売りの魚が驚くべき売られ方をしていました。
なんと、1つのパックにまったく違う色鮮やかな魚が2匹。
なんだこれは…!
そう見てみると、パックには一言
鮮魚』。

……なるほど、そういうくくりできたか。。。o( ̄ー ̄;)ゞううむ


沖縄だけが特殊なのではありません。
たとえばこれ、宮崎県のスーパーで写した『クロダイ』。





……これ、あきらかにメジナ(グレ)ですよね?

鯛の仲間じゃありませんし。。( ▽|||)


こういうのは、スーパーの個別の店舗の誤りだろうと思ったらさにあらず!
岡山県では、どこのスーパーでもカサゴのことを『メバル』(または『赤メバル』)として売っていたりします。


そんな風に、地域色・ローカル色がいやおうなしにでてしまうのがスーパーマーケットなのです。
ミスチル風に言うなら、“SUPERMARKET FANTASY”です。でしょうか?



で、ここでようやくポルトガルの話題に入るのですが、とあるスーパーマーケットの缶詰類売り場の写真です。




なんだかもう、壮観です。
芸術性さえ感じてしまうのです。



ところで、『エヴァンゲリオン DEATH&REBIRTH』とか『劇場版 東のエデンⅠ』とか、やっと本編が始まったところで「続く!」になってしまう映画ってありましたよね?

なぜここで映画の話に飛ぶのでしょうか?

察しのいい読者諸賢にはおわかりだと思います。



この内容は今日はここまでっ!続きます!!ヽ(゜▽、゜)ノアハ(ヲイ)  

Posted by よーかい at 01:25Comments(0)

2010年08月05日

煩悩だらけのブッダ。

ポルトガルのとある海沿いの小さな町にて。
『STRIP CLUB  BUDHA』



ポルトガル人は仏教をなんだと思っているのでしょうか??(; ̄∀ ̄A
しかも、扉の両脇には関羽っぽい中国チックな像まであります。


お店は閉まっていましたが、仮に開いていたとしても入りません。
こんな場所で悟りを開きたくはありませんから(笑)。  

Posted by よーかい at 00:38Comments(0)