2007年02月09日
日本教育史:明治~平成期
○学制布告に先立って太政官布告として公布され
「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして、…必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す。…」
と記すのは「(学事奨励ニ関スル)被仰出書」である。
○「天は人の上に人を造らず…」で知られるのは、福沢諭吉著の学問ノスヽメである。
○教育令(自由教育令とも)は、学制に代わって出された基本法で、米国の自由主義的教育制度を取り入れ、小学校の設置・就学義務の緩和・地方分権制導入を図る。
○田中不二麻呂は、『理事功程』を著し、文部大輔となり、明治12年の教育令制定に大きな役割をはたした。
○明治天皇の侍講として「教学聖旨」を起草し、のちに「教育ニ関スル勅語」起草にも参加したことでも知られるのは元田永孚である。
○同志社英学校(今日の同志社大学)を創設したのは新島襄である。
○文部卿河野敏鎌によって、学校設置、就学義務強化等がすすめられ、国家的統制が図られた。
修身科が重要教科として定められた。
このことを定めたのは改正教育令である。
○高嶺秀夫は、明治師範教育の指導者で、米国オスウィーゴー師範学校にて、ペスタロッチ主義開発教授法を学び、東京師範学校長、東京高等師範学校教頭などとして貢献した。
○日本で初めて『教育学』(1882)を著したのは伊沢修二である。
○内閣制度設置にともない、初代文部大臣(第1次伊藤内閣)に就任したのは森有礼である。
○1886年の法令帝国大学令は、国家の須要に応ずる研究・教育の府として帝国大学を定め、東京(1886)、京都(1897)、仙台(1907)、福岡(1910)などにこれを置いた。
○1886年の法令小学校令は、小学校を尋常と高等の二階梯とし、尋常を4年間の義務教育制とした。
○1886年、「実業に就かんと欲し又は高等の学校に入らんと欲する者に須要なる教育を為す所」という規定をした法律は中学校令である。
○伊沢修二が、出版社の営利主義を排するためにつくったのが、教科用図書検定規則である。
○教育勅語は井上毅による起草原案に元田永孚の修正意見が加えられて成立したもので、忠君愛国を中心とした儒教的道徳思想が盛られた。
1891年には内村鑑三不敬事件が起きた。
○米国のドルトン・プランを導入し、成城小学校を開設し、『実際的教育学』を著したのは沢柳政太郎である。
また、このころの自由教育運動の流れをくんで生活と結びついた教育を主張・実践した生活教育、生活綴方教育などもあらわれた。
○『新教育講義』を著し、帝国大学でも講じヘルバルト派の教育学を伝えたのはハウスクネヒトである。
○尋常小学校を6年制とし、義務教育年限も6年間に延長したのは1907年改正の小学校令である。
○1941年の法令国民学校令は、小学校制度を改め、国民学校を開き、義務教育年限を8年間に延長した。
○文部省から、戦時下刊行された2冊の副読本は、『国体の本義』と『臣民の道』である。
○戦時下、閣議決定で、都市部の国民学校児童を農村部へ移動させた措置を学童疎開という。
○米国教育使節団に対応した日本国側の委員会は、1946年に教育刷新委員会として組織された。
○昭和22年に「試案」として公にされた学習指導要領は、米国の経験主義教育が導入され、家庭科・社会科・自由研究が新設として注目された。
○戦後の教育改革の礎づくりを推進した教育刷新委員会の後身として昭和27年に設置され、旧文部省の各審議機関中、最も重要な意義をもつといわれたのは中央教育審議会である。
○昭和35年に設置され、昭和40年8月に、答申「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方針」を示したのは、同和対策審議会である。
「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして、…必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す。…」
と記すのは「(学事奨励ニ関スル)被仰出書」である。
○「天は人の上に人を造らず…」で知られるのは、福沢諭吉著の学問ノスヽメである。
○教育令(自由教育令とも)は、学制に代わって出された基本法で、米国の自由主義的教育制度を取り入れ、小学校の設置・就学義務の緩和・地方分権制導入を図る。
○田中不二麻呂は、『理事功程』を著し、文部大輔となり、明治12年の教育令制定に大きな役割をはたした。
○明治天皇の侍講として「教学聖旨」を起草し、のちに「教育ニ関スル勅語」起草にも参加したことでも知られるのは元田永孚である。
○同志社英学校(今日の同志社大学)を創設したのは新島襄である。
○文部卿河野敏鎌によって、学校設置、就学義務強化等がすすめられ、国家的統制が図られた。
修身科が重要教科として定められた。
このことを定めたのは改正教育令である。
○高嶺秀夫は、明治師範教育の指導者で、米国オスウィーゴー師範学校にて、ペスタロッチ主義開発教授法を学び、東京師範学校長、東京高等師範学校教頭などとして貢献した。
○日本で初めて『教育学』(1882)を著したのは伊沢修二である。
○内閣制度設置にともない、初代文部大臣(第1次伊藤内閣)に就任したのは森有礼である。
○1886年の法令帝国大学令は、国家の須要に応ずる研究・教育の府として帝国大学を定め、東京(1886)、京都(1897)、仙台(1907)、福岡(1910)などにこれを置いた。
○1886年の法令小学校令は、小学校を尋常と高等の二階梯とし、尋常を4年間の義務教育制とした。
○1886年、「実業に就かんと欲し又は高等の学校に入らんと欲する者に須要なる教育を為す所」という規定をした法律は中学校令である。
○伊沢修二が、出版社の営利主義を排するためにつくったのが、教科用図書検定規則である。
○教育勅語は井上毅による起草原案に元田永孚の修正意見が加えられて成立したもので、忠君愛国を中心とした儒教的道徳思想が盛られた。
1891年には内村鑑三不敬事件が起きた。
○米国のドルトン・プランを導入し、成城小学校を開設し、『実際的教育学』を著したのは沢柳政太郎である。
また、このころの自由教育運動の流れをくんで生活と結びついた教育を主張・実践した生活教育、生活綴方教育などもあらわれた。
○『新教育講義』を著し、帝国大学でも講じヘルバルト派の教育学を伝えたのはハウスクネヒトである。
○尋常小学校を6年制とし、義務教育年限も6年間に延長したのは1907年改正の小学校令である。
○1941年の法令国民学校令は、小学校制度を改め、国民学校を開き、義務教育年限を8年間に延長した。
○文部省から、戦時下刊行された2冊の副読本は、『国体の本義』と『臣民の道』である。
○戦時下、閣議決定で、都市部の国民学校児童を農村部へ移動させた措置を学童疎開という。
○米国教育使節団に対応した日本国側の委員会は、1946年に教育刷新委員会として組織された。
○昭和22年に「試案」として公にされた学習指導要領は、米国の経験主義教育が導入され、家庭科・社会科・自由研究が新設として注目された。
○戦後の教育改革の礎づくりを推進した教育刷新委員会の後身として昭和27年に設置され、旧文部省の各審議機関中、最も重要な意義をもつといわれたのは中央教育審議会である。
○昭和35年に設置され、昭和40年8月に、答申「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方針」を示したのは、同和対策審議会である。
2007年02月08日
現代(教育史)
1945 ポツダム宣言受諾
文部省、新日本建設ノ教育方針
GHQ、修身、日本歴史及び地理停止ニ関スル件
1946 天皇「人間宣言」
第1次米国教育使節団報告書公表
文部省、『国のあゆみ』発表
「日本国憲法」発布(11・3、施行は半年後の1947・5・3)
1947 文部省、『学習指導要領 一般編(試案)』発行
「教育基本法」(3・31公布・施行)
「学校教育法」(3・31公布、4・1施行)
6・3・3・4制発足
1948 「教育委員会法」公布
1949 「教育公務員特例法」公布
1950 第2次米国教育使節団来日、勧告
1951 『学習指導要領 一般編(試案)』改訂版発行
1952 対日講和条約発効 独立を回復
1954 中央教育審議会第3回答申「教員の政治的中立性維持に関する答申」
1956 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」公布(「教育委員会法」廃止)
1958 小学校・中学校の『学習指導要領』告示
特設「道徳」が実施される
1961 高等専門学校発足
1964 東京オリンピック開催
1968 小学校学習指導要領改訂
1969 中学校学習指導要領改訂
1970 高等学校学習指導要領改訂
1972 沖縄、本土に復帰
1977 小学校・中学校の学習指導要領改訂
1984 臨時教育審議会が首相の諮問機関として発足
1987 臨時教育審議会最終答申
教育課程審議会最終答申
1989 小学校・中学校・高等学校学習指導要領改訂
文部省告示「小学校学習指導要領」改訂
「中学校学習指導要領」改訂
「高等学校学習指導要領」改訂
「幼稚園教育要領」改訂(3.15)
教育職員免許法施行規則等の一部を改正する省令(3.22)
国連総会「児童の権利に関する条約」を全会一致で採択(11.20 1990.9.2発効)
1990 ユネスコ「国際識字年」(1.1)
中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」(1.30)
厚生省通知「保育所保育指針」(3.27)
「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」公布(6.29)
子どものための世界サミット(9.29~30)
1991 中央教育審議会答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」(4.19)
1992 新「小学校学習指導要領」に基づく新教育課程全面実施(4.1)
学校週5日制スタート。
以後毎月の第2土曜日が休業日(9.12)
1993 文部事務次官通達「高等学校の入学者選抜について」〈業者テストの排除〉(2.22)
学校法施規改正〈単位制高校、総合学科、調査書なしの入学者選抜等〉(3.10)
1994 児童の権利に関する条約批准(3.29)
いじめ対策緊急アピール(12.9)
1995 幼稚園設置基準一部改正〈30人学級〉(2.8)
公立学校週5日制、第4日曜日を加え月2回になる(4.22)
1996 文部大臣「緊急アピール~かけがえのない子どもの命を守るために~」(1.30)
文部省・いじめ対策本部設置(2.13)
生涯学習審議会答申「地域における生涯学習機会の充実方策について」(4.24)
1997 中教審「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」第2次答申
1998 中教審「新しい時代を拓く心を育てるために-次世代を育てる心を失う危機-」答申
幼稚園教育要領、小学校学習指導要領、中学校学習指導要領告示
1999 高等学校学習指導要領、盲聾養護学校学習指導要領告示
2002 小・中・高等学校学習指導要領一部改正(12.26)
盲・聾・養護学校学習指導要領一部改正(12.26)
文部省、新日本建設ノ教育方針
GHQ、修身、日本歴史及び地理停止ニ関スル件
1946 天皇「人間宣言」
第1次米国教育使節団報告書公表
文部省、『国のあゆみ』発表
「日本国憲法」発布(11・3、施行は半年後の1947・5・3)
1947 文部省、『学習指導要領 一般編(試案)』発行
「教育基本法」(3・31公布・施行)
「学校教育法」(3・31公布、4・1施行)
6・3・3・4制発足
1948 「教育委員会法」公布
1949 「教育公務員特例法」公布
1950 第2次米国教育使節団来日、勧告
1951 『学習指導要領 一般編(試案)』改訂版発行
1952 対日講和条約発効 独立を回復
1954 中央教育審議会第3回答申「教員の政治的中立性維持に関する答申」
1956 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」公布(「教育委員会法」廃止)
1958 小学校・中学校の『学習指導要領』告示
特設「道徳」が実施される
1961 高等専門学校発足
1964 東京オリンピック開催
1968 小学校学習指導要領改訂
1969 中学校学習指導要領改訂
1970 高等学校学習指導要領改訂
1972 沖縄、本土に復帰
1977 小学校・中学校の学習指導要領改訂
1984 臨時教育審議会が首相の諮問機関として発足
1987 臨時教育審議会最終答申
教育課程審議会最終答申
1989 小学校・中学校・高等学校学習指導要領改訂
文部省告示「小学校学習指導要領」改訂
「中学校学習指導要領」改訂
「高等学校学習指導要領」改訂
「幼稚園教育要領」改訂(3.15)
教育職員免許法施行規則等の一部を改正する省令(3.22)
国連総会「児童の権利に関する条約」を全会一致で採択(11.20 1990.9.2発効)
1990 ユネスコ「国際識字年」(1.1)
中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」(1.30)
厚生省通知「保育所保育指針」(3.27)
「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」公布(6.29)
子どものための世界サミット(9.29~30)
1991 中央教育審議会答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」(4.19)
1992 新「小学校学習指導要領」に基づく新教育課程全面実施(4.1)
学校週5日制スタート。
以後毎月の第2土曜日が休業日(9.12)
1993 文部事務次官通達「高等学校の入学者選抜について」〈業者テストの排除〉(2.22)
学校法施規改正〈単位制高校、総合学科、調査書なしの入学者選抜等〉(3.10)
1994 児童の権利に関する条約批准(3.29)
いじめ対策緊急アピール(12.9)
1995 幼稚園設置基準一部改正〈30人学級〉(2.8)
公立学校週5日制、第4日曜日を加え月2回になる(4.22)
1996 文部大臣「緊急アピール~かけがえのない子どもの命を守るために~」(1.30)
文部省・いじめ対策本部設置(2.13)
生涯学習審議会答申「地域における生涯学習機会の充実方策について」(4.24)
1997 中教審「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」第2次答申
1998 中教審「新しい時代を拓く心を育てるために-次世代を育てる心を失う危機-」答申
幼稚園教育要領、小学校学習指導要領、中学校学習指導要領告示
1999 高等学校学習指導要領、盲聾養護学校学習指導要領告示
2002 小・中・高等学校学習指導要領一部改正(12.26)
盲・聾・養護学校学習指導要領一部改正(12.26)
2007年02月08日
日本教育史:近代
○福沢諭吉は、豊前国(現大分県)の中津出身。
緒方洪庵の適塾に学ぶ。
「独立自尊」を唱え、近代日本の精神的確立に与えた影響は大きい。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく…学問とは、唯むづかしき字を知り、解し難き古文を読み、詩を作るなど、世上に実のなき文学を云ふにあらず…」
(『学問ノスヽメ』初編、1872年2月)。
○「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして…必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す…」
(「学事奨励に関スル被仰出書「被仰出書」とも」)。
○大隈重信は、藩校弘道館に学び、東京専門学校(後の早稲田大学)を創設した。
「外国の法に倣って日本人を教育されるといふは実に恐るべきことだ。是では往けない、国の独立が危ない、どうしても学問は独立させなければ往けない」
(『大隈伯演説集』)
○八大教育主張:
①創造教育論……稲毛金七
②動的教育論……及川平治
③自学教育論……樋口長市
④自由教育論……手塚岸衛
⑤文芸教育論……片上 伸
⑥一切衝動皆満足論…千葉命吉
⑦自動教育論……河野清丸
⑧全人教育論……小原国芳
○明治時代の主な人物:
①教育:福沢諭吉・大隈重信・新島襄
②医学:北里柴三郎・志賀潔・野口英世
③化学:高峰譲吉・鈴木梅太郎
④小説:坪内逍遙・夏目漱石・島崎藤村・森鴎外
⑤詩歌:島崎藤村・正岡子規・与謝野晶子・石川啄木
⑥絵画:狩野芳崖・横山大観・竹内栖鳳・黒田清輝
緒方洪庵の適塾に学ぶ。
「独立自尊」を唱え、近代日本の精神的確立に与えた影響は大きい。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく…学問とは、唯むづかしき字を知り、解し難き古文を読み、詩を作るなど、世上に実のなき文学を云ふにあらず…」
(『学問ノスヽメ』初編、1872年2月)。
○「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして…必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す…」
(「学事奨励に関スル被仰出書「被仰出書」とも」)。
○大隈重信は、藩校弘道館に学び、東京専門学校(後の早稲田大学)を創設した。
「外国の法に倣って日本人を教育されるといふは実に恐るべきことだ。是では往けない、国の独立が危ない、どうしても学問は独立させなければ往けない」
(『大隈伯演説集』)
○八大教育主張:
①創造教育論……稲毛金七
②動的教育論……及川平治
③自学教育論……樋口長市
④自由教育論……手塚岸衛
⑤文芸教育論……片上 伸
⑥一切衝動皆満足論…千葉命吉
⑦自動教育論……河野清丸
⑧全人教育論……小原国芳
○明治時代の主な人物:
①教育:福沢諭吉・大隈重信・新島襄
②医学:北里柴三郎・志賀潔・野口英世
③化学:高峰譲吉・鈴木梅太郎
④小説:坪内逍遙・夏目漱石・島崎藤村・森鴎外
⑤詩歌:島崎藤村・正岡子規・与謝野晶子・石川啄木
⑥絵画:狩野芳崖・横山大観・竹内栖鳳・黒田清輝
2007年02月07日
日本教育史:江戸時代
○朱子学は、形而上の宇宙の根本原理を理とし、形而下の存在のありさまを気とした哲学体系から、儒学を体系化したもの。
○朱子学派の学者には、林羅山、藤原惺窩、木下順庵、室鳩巣、山崎闇斎らがいる。
また『読史余論』を著した新井白石もいる。
○朱子学者であるが、朱子学からの脱皮を試みた。
教育論『和俗童子訓』のほかに『養生訓』があるのは貝原益軒である。
○陽明学派の学者には、中江藤樹、熊沢蕃山、信州松代藩士で、蘭学・砲術にも通じ、吉田松陰の密航の企てにも坐し、後、海外事情にも通じることが日本を守ることにもなる、との観点を含ませた独特の攘夷論を展開した佐久間象山らがいる。
陽明学派は、人間が本来具有している判断能力を強調した。
これを良知といった。
○日本の陽明学の祖といわれる中江藤樹は家塾藤樹書院を開き、熊沢蕃山らが学んだ。
主著に『翁問答』がある。
○古学派の学者には、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らがいる。
後世の学者の注疏を媒介にして学ぶことの問題を思量し、直接、孔子や孟子そのものへ復帰して学ぶことの意義を強調し、その意味で朱子学派や陽明学派とは一線を画した。
○古学者の祖で兵学者でもある山鹿素行は、儒教理念に基づく武士道を示した。
主著に『武教全書』、『聖教要録』がある。
○私塾古義堂を開いたのは伊藤仁斎である。
○私塾〓(「くさかんむり」の下に、「ごんべん」と「爰」)園塾を江戸に創設したのは荻生徂徠である。
○藩校には、会津の日新館、長州の明倫館、尾張の明倫堂、水戸の弘道館、熊本の時習館、米沢の興譲館などがある。
○郷学には、岡山藩の閑谷黌、会津藩の猪苗代学校など。
○岡山藩の閑谷黌は、藩主池田光政が創設した。
○私塾には、吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適塾、シーボルトの鳴滝塾、広瀬淡窓の咸宜園、菅茶山の簾塾などがある。
○国学は、日本の歴史・文化の独自性を探究した。
他方、洋学は、西洋文明の導入に影響を与え、やがての、尊皇攘夷や文明開化を醸成した。
○国学者で、『万葉集』等の古典に精通し、復古神道を唱えたのは賀茂真淵、門流に本居宣長や塙保己一らがいる。
○本居宣長は、国学者・医師・歌人。
家塾「鈴の屋」が知られ、そこで、『万葉集』『古今集』『源氏物語』などを講義した。
主著に、『古事記伝』44巻、『うひ山ふみ』『(鈴屋)答問録』がある。
「物のあはれ」を説き、門弟に平田篤胤らがいる。
○盲人の国学者で、教育家でもある塙保己一は、和漢の学問を修め、江戸麹町に、幕府の援助のもと和学講談所を開設。
古書の収集類別による大規模な叢書『群書類従』の刊行をした。
○平田篤胤は、国学者で、神道の体系をこころみた。
王政復古への理念的寄与をなした。
○水戸藩での大日本史編纂事業を機に水戸学が成立し、徳川(水戸)光圀の史局を中心とする前期と、藤田東湖を中心とする後期に分けられよう。
この学派は儒派の一派に位置づくが、尊皇思想を貫き、幕末には尊皇攘夷論をなし、重要な影響を与えた。
○藤田東湖は、水戸学派の学者で、尊王攘夷論の指導者、水戸藩校の弘道館開設に尽力した。
○シーボルトは、オランダ商館の医師として長崎に来、鳴滝塾を開設して、医学や自然科学等を教授した。
○緒方洪庵は、幕末の蘭学者・蘭方医で、大阪に緒方塾(または適々斎塾または適塾とも)で、数千人もの門弟たちに洋楽を教授した。
学級組織の工夫がなされていたのも特筆されよう。
門弟には、福沢諭吉、大村益次郎らもいた。
○村落集団、共同体の中で組織された若者集団のことを若者組という。
明治期以降、青年団、青年訓練所へと変容していく。
○石田梅岩は、(石門)心学の始祖といわれる。
神・儒・仏の三教を統合した庶民教育を平易に説き、忠・孝・正直・堪忍・倹約等を中心とする。
○二宮尊徳は、報徳教を始め、徳を以て徳に報いることを説いた。
天保期の農村経済・経営の復興施策に尽力した。
勤・倹・譲の理念は明治以降、修身教育に用いられた。
○大原幽学は、神・儒・仏の三教を学んだ幕末の農村指導者。
下総の農村で、農業経営改善、交換分合での農耕地整理等を実施した。
教導所として改心楼を開設したことで、幕府に弾圧され、自殺した。
○「予往年過って諸友の為に推され、自ら門戸を開いて、以て学者を侍す。
これより四方の士、従遊日に衆く、道を問うて已まず」との書き出しで始まる『童子問』は伊藤仁斎が著した。
○朱子学派の学者には、林羅山、藤原惺窩、木下順庵、室鳩巣、山崎闇斎らがいる。
また『読史余論』を著した新井白石もいる。
○朱子学者であるが、朱子学からの脱皮を試みた。
教育論『和俗童子訓』のほかに『養生訓』があるのは貝原益軒である。
○陽明学派の学者には、中江藤樹、熊沢蕃山、信州松代藩士で、蘭学・砲術にも通じ、吉田松陰の密航の企てにも坐し、後、海外事情にも通じることが日本を守ることにもなる、との観点を含ませた独特の攘夷論を展開した佐久間象山らがいる。
陽明学派は、人間が本来具有している判断能力を強調した。
これを良知といった。
○日本の陽明学の祖といわれる中江藤樹は家塾藤樹書院を開き、熊沢蕃山らが学んだ。
主著に『翁問答』がある。
○古学派の学者には、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らがいる。
後世の学者の注疏を媒介にして学ぶことの問題を思量し、直接、孔子や孟子そのものへ復帰して学ぶことの意義を強調し、その意味で朱子学派や陽明学派とは一線を画した。
○古学者の祖で兵学者でもある山鹿素行は、儒教理念に基づく武士道を示した。
主著に『武教全書』、『聖教要録』がある。
○私塾古義堂を開いたのは伊藤仁斎である。
○私塾〓(「くさかんむり」の下に、「ごんべん」と「爰」)園塾を江戸に創設したのは荻生徂徠である。
○藩校には、会津の日新館、長州の明倫館、尾張の明倫堂、水戸の弘道館、熊本の時習館、米沢の興譲館などがある。
○郷学には、岡山藩の閑谷黌、会津藩の猪苗代学校など。
○岡山藩の閑谷黌は、藩主池田光政が創設した。
○私塾には、吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適塾、シーボルトの鳴滝塾、広瀬淡窓の咸宜園、菅茶山の簾塾などがある。
○国学は、日本の歴史・文化の独自性を探究した。
他方、洋学は、西洋文明の導入に影響を与え、やがての、尊皇攘夷や文明開化を醸成した。
○国学者で、『万葉集』等の古典に精通し、復古神道を唱えたのは賀茂真淵、門流に本居宣長や塙保己一らがいる。
○本居宣長は、国学者・医師・歌人。
家塾「鈴の屋」が知られ、そこで、『万葉集』『古今集』『源氏物語』などを講義した。
主著に、『古事記伝』44巻、『うひ山ふみ』『(鈴屋)答問録』がある。
「物のあはれ」を説き、門弟に平田篤胤らがいる。
○盲人の国学者で、教育家でもある塙保己一は、和漢の学問を修め、江戸麹町に、幕府の援助のもと和学講談所を開設。
古書の収集類別による大規模な叢書『群書類従』の刊行をした。
○平田篤胤は、国学者で、神道の体系をこころみた。
王政復古への理念的寄与をなした。
○水戸藩での大日本史編纂事業を機に水戸学が成立し、徳川(水戸)光圀の史局を中心とする前期と、藤田東湖を中心とする後期に分けられよう。
この学派は儒派の一派に位置づくが、尊皇思想を貫き、幕末には尊皇攘夷論をなし、重要な影響を与えた。
○藤田東湖は、水戸学派の学者で、尊王攘夷論の指導者、水戸藩校の弘道館開設に尽力した。
○シーボルトは、オランダ商館の医師として長崎に来、鳴滝塾を開設して、医学や自然科学等を教授した。
○緒方洪庵は、幕末の蘭学者・蘭方医で、大阪に緒方塾(または適々斎塾または適塾とも)で、数千人もの門弟たちに洋楽を教授した。
学級組織の工夫がなされていたのも特筆されよう。
門弟には、福沢諭吉、大村益次郎らもいた。
○村落集団、共同体の中で組織された若者集団のことを若者組という。
明治期以降、青年団、青年訓練所へと変容していく。
○石田梅岩は、(石門)心学の始祖といわれる。
神・儒・仏の三教を統合した庶民教育を平易に説き、忠・孝・正直・堪忍・倹約等を中心とする。
○二宮尊徳は、報徳教を始め、徳を以て徳に報いることを説いた。
天保期の農村経済・経営の復興施策に尽力した。
勤・倹・譲の理念は明治以降、修身教育に用いられた。
○大原幽学は、神・儒・仏の三教を学んだ幕末の農村指導者。
下総の農村で、農業経営改善、交換分合での農耕地整理等を実施した。
教導所として改心楼を開設したことで、幕府に弾圧され、自殺した。
○「予往年過って諸友の為に推され、自ら門戸を開いて、以て学者を侍す。
これより四方の士、従遊日に衆く、道を問うて已まず」との書き出しで始まる『童子問』は伊藤仁斎が著した。
2007年02月06日
日本教育史:近世
○学問に志なければ、不審をすべき力もなし。理をきはめんと思ひて、疑のあるは学問の進むしるしなり」(『三徳抄』)という。
建仁寺に入り、仏教、儒教を学ぶ。
後に藤原惺窩の門に入り、朱子学を学ぶ。
徳川家康に仕え、秀忠、家光、家綱の四代に仕え、儒学を講じ、儀式・法令の制定に関し、幕政に参画した。
彼の私塾は後に、昌平坂学問所のもととなった。
この人物は林羅山である。
○貝原益軒は、黒田藩の医師の子として生まれ、藩命で京都に遊学したが、学んだ朱子学に疑問をもち、後に、その疑問を『慎思録』や『和俗童子訓』に著した。
「知行の二の者、車の両輪の如く、鳥の両翼の如し」
「七歳、是より男女席を同くしてならび座せず、食をともにせず」
と主張している。
○新井白石は、その主著に、『西洋紀聞』『読史余論』がある。
また『自賛詩』に「蒼観は鉄の如く鬢は銀の如し、紫石稜々電人を射る、五尺の小身渾てこれ胆、明時なんぞ麒麟に画くことを用いん」という。
○荻生徂徠は江戸の人で、朱子学を学ぶ。
柳沢吉保に使えて信任され、将軍綱吉の学問講義にも連なったが、官を辞し、江戸日本橋に私塾を開いた。
当初、伊藤仁斎の古義学を批判したが、仁斎の影響を受けて、古文辞学を唱え、古語を明らかにして、古典研究をすることを提唱した。
その著書『答問書』には、「気質は何としても変化ならぬ物にて候。只気質を養いて候て、其生れ得たる通りを成就いたし候が学問にて候」という。
○信長・秀吉・家康の時代造りの性格の差異を物語る歌がある。
鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす=織田信長
鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ほととぎす=豊臣秀吉
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす=徳川家康
○織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに 食うは徳川
建仁寺に入り、仏教、儒教を学ぶ。
後に藤原惺窩の門に入り、朱子学を学ぶ。
徳川家康に仕え、秀忠、家光、家綱の四代に仕え、儒学を講じ、儀式・法令の制定に関し、幕政に参画した。
彼の私塾は後に、昌平坂学問所のもととなった。
この人物は林羅山である。
○貝原益軒は、黒田藩の医師の子として生まれ、藩命で京都に遊学したが、学んだ朱子学に疑問をもち、後に、その疑問を『慎思録』や『和俗童子訓』に著した。
「知行の二の者、車の両輪の如く、鳥の両翼の如し」
「七歳、是より男女席を同くしてならび座せず、食をともにせず」
と主張している。
○新井白石は、その主著に、『西洋紀聞』『読史余論』がある。
また『自賛詩』に「蒼観は鉄の如く鬢は銀の如し、紫石稜々電人を射る、五尺の小身渾てこれ胆、明時なんぞ麒麟に画くことを用いん」という。
○荻生徂徠は江戸の人で、朱子学を学ぶ。
柳沢吉保に使えて信任され、将軍綱吉の学問講義にも連なったが、官を辞し、江戸日本橋に私塾を開いた。
当初、伊藤仁斎の古義学を批判したが、仁斎の影響を受けて、古文辞学を唱え、古語を明らかにして、古典研究をすることを提唱した。
その著書『答問書』には、「気質は何としても変化ならぬ物にて候。只気質を養いて候て、其生れ得たる通りを成就いたし候が学問にて候」という。
○信長・秀吉・家康の時代造りの性格の差異を物語る歌がある。
鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす=織田信長
鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ほととぎす=豊臣秀吉
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす=徳川家康
○織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに 食うは徳川
2007年02月06日
日本教育史:鎌倉室町期
○道元は、超世俗的な姿勢をとり、ひたすらな坐禅を説き、仏道をならうことと自己をならうことの、一体性を説く。
弟子で侍者の懐奘(えじょう)が聞書をまとめた『正法眼蔵随聞記』には、
「学道の人は後日を待て、行道せんと思ふことなかれ。
只今日今時を過ごさずして、日々時々を勤むべき也(仏道を学ぶ者は、後日をまって修行しようと考えてはならぬ。ただ、今日ただいま時を空しく過ごすことなく、毎日毎日、毎時毎時、つとめはげまなくてはならぬ)」等と説く。
○坂東の大学と呼称されたのは足利学校である。
○「花」に道の本質を譬え、発達年齢に応じての、発達課題を考察したのは世阿弥(元清)である。
○平安期から明治期学制がしかれるまでの間、庶民用の教科書・手習い本として用いられてきたものを、往来物といい、名称の一部にその名をもつものや、『実語教』『女大学』などがある。
○鎌倉期には、五山文学に象徴される学僧の専門的な寺院における教育組織があった。
○戦国期になると、切支丹学校が開設され、セミナリオとかコレジヨなどと呼ばれていた。
弟子で侍者の懐奘(えじょう)が聞書をまとめた『正法眼蔵随聞記』には、
「学道の人は後日を待て、行道せんと思ふことなかれ。
只今日今時を過ごさずして、日々時々を勤むべき也(仏道を学ぶ者は、後日をまって修行しようと考えてはならぬ。ただ、今日ただいま時を空しく過ごすことなく、毎日毎日、毎時毎時、つとめはげまなくてはならぬ)」等と説く。
○坂東の大学と呼称されたのは足利学校である。
○「花」に道の本質を譬え、発達年齢に応じての、発達課題を考察したのは世阿弥(元清)である。
○平安期から明治期学制がしかれるまでの間、庶民用の教科書・手習い本として用いられてきたものを、往来物といい、名称の一部にその名をもつものや、『実語教』『女大学』などがある。
○鎌倉期には、五山文学に象徴される学僧の専門的な寺院における教育組織があった。
○戦国期になると、切支丹学校が開設され、セミナリオとかコレジヨなどと呼ばれていた。
2007年02月06日
日本教育史:古代・奈良・平安時代
○聖徳太子は推古天皇の摂政で古代の官僚国家の実現に寄与した。
また、607年遣隋使として小野妹子を派遣し、大陸文化導入に貢献した。
小野妹子は、国書を煬帝に呈し、翌年答礼使・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国。
裴世清の帰国に際し、日本から高向玄理(たかむこのくろまろ)・南淵請安らが第2回目の遣隋使として赴いた。
○主な別曹には、次がある。
和気氏の 弘文院
橘氏の 学館院
菅原氏の 文章院
藤原氏の 勧学院
在原氏の 奨学院
○奈良時代には文庫が貴族によってつくられた。
これは、今でいう図書館に相当し、石上宅嗣の開設した芸亭(うんてい)は日本最初の図書館として知られる。
○空海は、真言宗学僧のための学習課程である「弘仁遺戒(誡)」を定めた。
○1258年に、王仁と阿直岐が、莵道郎子(うじのわさいらつこ)に儒教・手習いを伝授したといわれる。
○603年に聖徳太子は、冠位十二階の制を定めた。
①徳・仁・礼・信・義・智の名称。
大・小の区分。
紫・青・赤・黄・白・黒の色別。
②人材登用主義(個人の才能・功績に応じて授与、昇進可能)
氏姓制度の世襲制打破を期した。
○奈良仏教と平安仏教との特色の対比:
主に都市部で教典研究していた奈良仏教に対して、地方の平安仏教では、山岳において修行していたことがあげられる。
平安仏教を密教と言うのに対して、奈良仏教は、顕教と言われる。
奈良仏教を国家仏教と言うのに対して、平安仏教は、貴族仏教といわれる。
平安仏教が、天台・真言宗が中心であったのに対して、奈良仏教は、南都六宗と称される各宗が集合的に盛んであった。
また、607年遣隋使として小野妹子を派遣し、大陸文化導入に貢献した。
小野妹子は、国書を煬帝に呈し、翌年答礼使・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国。
裴世清の帰国に際し、日本から高向玄理(たかむこのくろまろ)・南淵請安らが第2回目の遣隋使として赴いた。
○主な別曹には、次がある。
和気氏の 弘文院
橘氏の 学館院
菅原氏の 文章院
藤原氏の 勧学院
在原氏の 奨学院
○奈良時代には文庫が貴族によってつくられた。
これは、今でいう図書館に相当し、石上宅嗣の開設した芸亭(うんてい)は日本最初の図書館として知られる。
○空海は、真言宗学僧のための学習課程である「弘仁遺戒(誡)」を定めた。
○1258年に、王仁と阿直岐が、莵道郎子(うじのわさいらつこ)に儒教・手習いを伝授したといわれる。
○603年に聖徳太子は、冠位十二階の制を定めた。
①徳・仁・礼・信・義・智の名称。
大・小の区分。
紫・青・赤・黄・白・黒の色別。
②人材登用主義(個人の才能・功績に応じて授与、昇進可能)
氏姓制度の世襲制打破を期した。
○奈良仏教と平安仏教との特色の対比:
主に都市部で教典研究していた奈良仏教に対して、地方の平安仏教では、山岳において修行していたことがあげられる。
平安仏教を密教と言うのに対して、奈良仏教は、顕教と言われる。
奈良仏教を国家仏教と言うのに対して、平安仏教は、貴族仏教といわれる。
平安仏教が、天台・真言宗が中心であったのに対して、奈良仏教は、南都六宗と称される各宗が集合的に盛んであった。
2007年02月05日
古代・中世の日本教育史
○十七条憲法:
一に曰く、和を以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ。
人皆党あり、亦達れる者少し。
是を以て、或は君父に順はずしてまた隣里に違ふ。
然れども上和ぎ、下睦びて事を諭ふに諧ふときは、則ち事理自らに通ふ、何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。
三宝とは、仏・法・僧なり。
則ち四生の終の帰、万国の極集なり。
何れの世、何れの人にか是の法を貴ばざる。
(中略)
四に曰く、群卿百寮、礼を以て本とせよ。
其れ民を治むる本は要ず礼に在り。
(後略)
○貴族による別曹(直曹):
①和家氏によって、782年、弘文院が最も早く創立されたが、廃滅も早い。
②菅原・大江氏によって、805年頃、文章院が開かれ、入学希望者は姓氏を問わない。
③藤原氏によって、821年、勧学院が開かれ、最も盛大で、規模が大きかった。
④828年、僧・空海、綜芸種智院を創設。
⑤橘氏によって、834年~847年、学館院が開かれる。
○1260年頃『歎異抄』(唯円編):
「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを、世の人はつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや…しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみてたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。」
○1402年頃、世阿弥『風姿花伝』(花伝書ともいう):
「ものまねの品々、筆につくしがたし
さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにもいかにも嗜むべし。
およそなにごとをも残さずよく似せんが本意なり。
…そのほか、上職の品々、花鳥風月のことわざ、いかにもいかにもこまかに似すべし。」
一に曰く、和を以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ。
人皆党あり、亦達れる者少し。
是を以て、或は君父に順はずしてまた隣里に違ふ。
然れども上和ぎ、下睦びて事を諭ふに諧ふときは、則ち事理自らに通ふ、何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。
三宝とは、仏・法・僧なり。
則ち四生の終の帰、万国の極集なり。
何れの世、何れの人にか是の法を貴ばざる。
(中略)
四に曰く、群卿百寮、礼を以て本とせよ。
其れ民を治むる本は要ず礼に在り。
(後略)
○貴族による別曹(直曹):
①和家氏によって、782年、弘文院が最も早く創立されたが、廃滅も早い。
②菅原・大江氏によって、805年頃、文章院が開かれ、入学希望者は姓氏を問わない。
③藤原氏によって、821年、勧学院が開かれ、最も盛大で、規模が大きかった。
④828年、僧・空海、綜芸種智院を創設。
⑤橘氏によって、834年~847年、学館院が開かれる。
○1260年頃『歎異抄』(唯円編):
「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを、世の人はつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや…しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみてたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。」
○1402年頃、世阿弥『風姿花伝』(花伝書ともいう):
「ものまねの品々、筆につくしがたし
さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにもいかにも嗜むべし。
およそなにごとをも残さずよく似せんが本意なり。
…そのほか、上職の品々、花鳥風月のことわざ、いかにもいかにもこまかに似すべし。」
2006年05月14日
明治~平成期:24
戦後の教育改革の礎づくりを推進した教育刷新委員会の後進として昭和27年に設置され、旧文部省の各審議会中、最も重要な意義をもつといわれたのは中央教育審議会である。
2006年05月14日
明治~平成期:16
米国のドルトン・プランを導入し、成城小学校を開設し、『実際的教育学』を著したのは沢柳政太郎である。
また、このころの自由教育運動の流れをくんで生活と結びついた教育を主張・実践した生活教育、生活綴方教育などもあらわれた。
また、このころの自由教育運動の流れをくんで生活と結びついた教育を主張・実践した生活教育、生活綴方教育などもあらわれた。
2006年05月14日
明治~平成期:15
教育勅語は、井上毅による起草草案に元田永孚の修正意見が加えられて成立したもので、忠君愛国を中心とした儒教的道徳思想が盛られた。
1891年には内村鑑三不敬事件が起きた。
1891年には内村鑑三不敬事件が起きた。




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