2009年06月02日
軽便鉄道はLove Train!?(ブログ第1072日目、雑感。)
沖縄本島で戦前走っていたという軽便鉄道(以下「ケービン)。
ケービンは3つの路線があり、1日10往復程度運転され、活況を呈していたといいます。
30の駅、118台の車両、300人余の従業員がいたといいますから、なかなかのものです。
ちなみに嘉手納線は那覇・嘉手納間を1時間16分で走っていたので平均時速は20キロメートル弱になります。
今の路線バスでは約1時間の距離ですσ(^_^;)
さて、ケービンの路線は、与那原線、嘉手納線、糸満線の3つがありました。
①与那原線(那覇・与那原間9.4キロ):
那覇を始点として東への路線です。
当時始発の那覇停車場は現在の那覇バスターミナルの場所にあったそうです。
②嘉手納線(古波蔵・嘉手納間22.4キロ):
那覇の2番線を出て、次の古波蔵停車場で与那原線と分岐し、北(本島中部)へ向かう路線です。
現在は始点近くは国道330号線になり、残りは国道58号線近くになりますが、「北谷~嘉手納」間は戦後はハンビー飛行場として使用されました。
ちなみに、ハンビー飛行場は1981年に返還され、いまは若者や家族連れでにぎわう一大商業集積地になっています。
FC琉球のホームグラウンドである北谷公園陸上競技場もこのハンビータウンの一角です。
③糸満線(國場・糸満間15.0キロ):
那覇の三番線から出発し、3つ目の國場(那覇より東側)で分岐して南へ行く路線です。
なお、糸満線終着「糸満駅」は町からとても離れた場所にありました。
それは、当時玉城村出身の県会議員、大城幸之一が玉城村に少しでも近づけようと強引にコースを変えてしまったせいだそうです。
当時「幸之一カーブ」と呼ばれたほど不自然なコースをケービンは通っていきました。
その結果、レールが足りなくなり、糸満に届く前に終点にせざるを得なかったというとんでもない逸話が残っています(; ̄∀ ̄A
なお、当時ケービンの競争相手だった馬車軌道は時代遅れになり衰退し、一時期存在していた電車はバスの出現で客を奪われていきました。
一方、ケービンが所属した県営鉄道は営業成績が良く、陸上の貨客輸送の要でした。
しかし、戦災で消滅し、昭和20年に運行を停止し、それ以降、けっして復活することはありませんでした。
さて、前回ご紹介した「軽便鉄道節」には、実は隠された意味があったのをご存知ですか?
よーかいはそれを知ったとき、「軽便鉄道節」を初めて聴いたとき以上の衝撃、いや、腰砕けでした…。
こんな意味があったとは…∑( ̄□ ̄;)
深い、深すぎますよ……。
例えば「軽便鉄道節」を訳していて、どうしても意味の分からない部分がありました。
一つは1番の歌詞に見られる「樽皮屋」。
サトウキビを運んでいったと歌詞からは読みとれますが、いったい樽皮屋とはなんぞや?
……そう思って調べてみたら、ありました♪
現沖縄市(コザ)の越来村美里は「樽皮砂糖樽」の制作でその名を県下に馳せていたのです。
おそらくそこから転じて、砂糖樽を保管する場所そのものが「樽皮屋」と呼ばれたのでしょう。
実際、サトウキビは黒糖にされてから樽に詰められ、那覇に集荷されていたことが記録に残っています。
でも、これはほんの小手調べ。
よーかいにとって、最大の謎は、実は曲のラストの「アフィー、アフィー」だったのです。
「お兄さん=(ウチナーグチの)アヒー」と掛けていることまではわかりました。
でも、訳していてなんとなくしっくりきませんでした。
「おにいさーん!おにいさーん!」
の呼びかけが文脈的にちょっと強引な気がしたのです。
ところが、加田芳英著『図説沖縄の鉄道〈改訂版〉』(ボーダーインク)を読んでいたら、すごい記述がありました!
なんと、当時の若者達は、
「(那覇の)辻遊郭に遊びに行こう!」
と仲間内で誘うときに外から汽笛を真似て「アフィー、アフィー」と呼んだというのです!
つまり、ケービンの汽笛は青少年を誘惑する音色だったのですな…!∑( ̄□ ̄;)
こう考えると、「軽便鉄道節」の1番で、彼氏をを応援していると見られる女性は辻の遊女だったと考えられます。
羽振りの良い彼氏に家を建ててもらおうとの下心付きで応援しているのです。
いっけんさわやかな歌詞に隠された、オトナの世界をかいま見せてくれます。。( ̄ω ̄;)
2番の「桃売り娘」というのも、意味深です。
おそらく、売っていたのは桃ではなく…(以下自粛)。
なるほど、これはたしかに「機関車よりも熱く焚きつけてくる」はずです(笑)。
で、お兄さんはその目的のために「那覇へとんぼ返り」だったわけですね。
余談ですが、風速25mを越えるとケービンは運休しました。
上記の本によると、駅で待機するのに体をもてあました車掌などは「台風の見舞い」と称して辻遊郭へ行って非常にもてたそうです。
そのため、台風を楽しみにしていた職員までいたのだとか…(; ̄∀ ̄A
『軽便汽車乗てぃ まーかいが』 (軽便汽車に乗ってどこいくの?)
……
……
……本当に、どこに行ってしまったのやら。。ヽ(゜▽、゜)ノアハ
ケービンは3つの路線があり、1日10往復程度運転され、活況を呈していたといいます。
30の駅、118台の車両、300人余の従業員がいたといいますから、なかなかのものです。
ちなみに嘉手納線は那覇・嘉手納間を1時間16分で走っていたので平均時速は20キロメートル弱になります。
今の路線バスでは約1時間の距離ですσ(^_^;)
さて、ケービンの路線は、与那原線、嘉手納線、糸満線の3つがありました。
①与那原線(那覇・与那原間9.4キロ):
那覇を始点として東への路線です。
当時始発の那覇停車場は現在の那覇バスターミナルの場所にあったそうです。
②嘉手納線(古波蔵・嘉手納間22.4キロ):
那覇の2番線を出て、次の古波蔵停車場で与那原線と分岐し、北(本島中部)へ向かう路線です。
現在は始点近くは国道330号線になり、残りは国道58号線近くになりますが、「北谷~嘉手納」間は戦後はハンビー飛行場として使用されました。
ちなみに、ハンビー飛行場は1981年に返還され、いまは若者や家族連れでにぎわう一大商業集積地になっています。
FC琉球のホームグラウンドである北谷公園陸上競技場もこのハンビータウンの一角です。
③糸満線(國場・糸満間15.0キロ):
那覇の三番線から出発し、3つ目の國場(那覇より東側)で分岐して南へ行く路線です。
なお、糸満線終着「糸満駅」は町からとても離れた場所にありました。
それは、当時玉城村出身の県会議員、大城幸之一が玉城村に少しでも近づけようと強引にコースを変えてしまったせいだそうです。
当時「幸之一カーブ」と呼ばれたほど不自然なコースをケービンは通っていきました。
その結果、レールが足りなくなり、糸満に届く前に終点にせざるを得なかったというとんでもない逸話が残っています(; ̄∀ ̄A
なお、当時ケービンの競争相手だった馬車軌道は時代遅れになり衰退し、一時期存在していた電車はバスの出現で客を奪われていきました。
一方、ケービンが所属した県営鉄道は営業成績が良く、陸上の貨客輸送の要でした。
しかし、戦災で消滅し、昭和20年に運行を停止し、それ以降、けっして復活することはありませんでした。
さて、前回ご紹介した「軽便鉄道節」には、実は隠された意味があったのをご存知ですか?
よーかいはそれを知ったとき、「軽便鉄道節」を初めて聴いたとき以上の衝撃、いや、腰砕けでした…。
こんな意味があったとは…∑( ̄□ ̄;)
深い、深すぎますよ……。
例えば「軽便鉄道節」を訳していて、どうしても意味の分からない部分がありました。
一つは1番の歌詞に見られる「樽皮屋」。
サトウキビを運んでいったと歌詞からは読みとれますが、いったい樽皮屋とはなんぞや?
……そう思って調べてみたら、ありました♪
現沖縄市(コザ)の越来村美里は「樽皮砂糖樽」の制作でその名を県下に馳せていたのです。
おそらくそこから転じて、砂糖樽を保管する場所そのものが「樽皮屋」と呼ばれたのでしょう。
実際、サトウキビは黒糖にされてから樽に詰められ、那覇に集荷されていたことが記録に残っています。
でも、これはほんの小手調べ。
よーかいにとって、最大の謎は、実は曲のラストの「アフィー、アフィー」だったのです。
「お兄さん=(ウチナーグチの)アヒー」と掛けていることまではわかりました。
でも、訳していてなんとなくしっくりきませんでした。
「おにいさーん!おにいさーん!」
の呼びかけが文脈的にちょっと強引な気がしたのです。
ところが、加田芳英著『図説沖縄の鉄道〈改訂版〉』(ボーダーインク)を読んでいたら、すごい記述がありました!
なんと、当時の若者達は、
「(那覇の)辻遊郭に遊びに行こう!」
と仲間内で誘うときに外から汽笛を真似て「アフィー、アフィー」と呼んだというのです!
つまり、ケービンの汽笛は青少年を誘惑する音色だったのですな…!∑( ̄□ ̄;)
こう考えると、「軽便鉄道節」の1番で、彼氏をを応援していると見られる女性は辻の遊女だったと考えられます。
羽振りの良い彼氏に家を建ててもらおうとの下心付きで応援しているのです。
いっけんさわやかな歌詞に隠された、オトナの世界をかいま見せてくれます。。( ̄ω ̄;)
2番の「桃売り娘」というのも、意味深です。
おそらく、売っていたのは桃ではなく…(以下自粛)。
なるほど、これはたしかに「機関車よりも熱く焚きつけてくる」はずです(笑)。
で、お兄さんはその目的のために「那覇へとんぼ返り」だったわけですね。
余談ですが、風速25mを越えるとケービンは運休しました。
上記の本によると、駅で待機するのに体をもてあました車掌などは「台風の見舞い」と称して辻遊郭へ行って非常にもてたそうです。
そのため、台風を楽しみにしていた職員までいたのだとか…(; ̄∀ ̄A
『軽便汽車乗てぃ まーかいが』 (軽便汽車に乗ってどこいくの?)
……
……
……本当に、どこに行ってしまったのやら。。ヽ(゜▽、゜)ノアハ
Posted by よーかい at 02:50│Comments(0)
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